「雪音様。お客さんですよ?」
リイナは店の入り口から戻ってくると、そんな風に彼に伝えた。
蜂蜜で紅茶。
ヴィアレスにある、時間帯により繁盛したりしなかったりする喫茶店である。
店なんてものは、特に飲食店になると、時間帯により客の数が変わるのは当然といえば当然なのだが。
それでも、この「蜂蜜で紅茶」のその落差といったら、激しい。
リイナは以前この店で働いており、現在は教育係として籍を置いて――
まあ、そんなわけで、リイナは親友である雪音と共に、店長に顔を見せにきたのだった。
もちろん、ヒトのいない時間帯を狙って、である。
現ウェイトレスであるミントや、店長と話しているうち、なぜか玄関先の掃除をすることになった彼女は、ほうきを持ったまま雪音にそんな風に伝えにきたのだった。
「客? って、誰? 男だったらいないっつって。
俺、今、こう、人生についてシミジミ考えてるところなんだよね」
「なにわけのわからない事言ってるんですか」
リイナの痛い一言に雪音は苦笑しながらしぶしぶ席を立つ。
店内に香るコーヒーの匂いと、甘いお菓子の匂い。
そんなリラックスできる場で、逢う相手じゃなかったな。
雪音がそうやって後悔する事になるのは、このほんの数秒後である。
[彼女]が[彼]と初めて逢ったのは、もう何年も前のこと。
やけに哀しい目が印象に残るその男は、自分よりも2つ年上。
仕事上で何度か一緒になることもあった。
印象に残る男、いざというときに頼りになる男。
そんな思いが、恋愛感情に変わるなんてのは、世間でも良くある話だと思う。
「……さ、さく…や…?」
蜂蜜で紅茶、の玄関先で待っていたのは女性。
肩口ほどまでの赤いストレートヘア。
意志の強そうな赤い瞳を彼の――雪音のほうに向け、彼女は腕組みをした状態で、怒ったような表情を浮かべてそこに立っている。
「久しぶりです、雪音」
透き通る声。しかし、抑揚はない。
彼女のそんな言葉に、雪音は思い切り深く深く溜息をついた。
「お久しぶり、の挨拶もないんですか? 雪音。もう何年ぶりかというのに」
再度、溜息。
「……久しぶりだね、咲夜。俺を殺しにきたの?」
「いいえ、私も逃げてきたのです」
彼女は――咲夜はそれだけ告げると、顎で雪音を外へと誘う。
「リイナちゃん、ごめん、俺用事できたからちょっと行くね。
この埋め合わせはまた今度」
彼は咲夜の意図を読み取って店内にいるリイナに向かってそう言った。
リイナの返事を確認すると、彼はすでに歩き始めている咲夜の後ろを追う。
なんとなく嫌な予感がした。
それが何なのかなんて、まだ知るわけもないけれど。
ただ、嫌な予感が、妙な悪寒が、雪音の身体をめぐる感覚を支配していた。
「マザーが壊れました」
ヴィアレス街中、ちょっと外れにある小さな貸家。
雪音の住むその家で、咲夜は煎れてもらったコーヒーを口につけると、おもむろにそんなことを言い出した。
「マザーが? 壊れたことと君が逃げ出したことと、何か関係が?」
彼女の前に座りながら、雪音はコーヒーを飲む彼女をちらりと横目で見やるようにしながら、半ば冷たく言い放つ。
咲夜は雪音の前職――暗殺集団に身を置いていた時代の仲間である。
雪音は「これ以上修羅に堕ちたくないから」と、親代わりであったその集団の頭――内部ではマザーと呼ばれている――を殺害して、その場を逃げ出した。
現在内部の人間は第二のマザーをトップに置いた上で、いまだ雪音を探しているだろうし、殺そうとしているのも彼はもちろん理解している。
だからこそ雪音は、咲夜が唐突に自分の前に現れたときには、自分を殺しに来たんだと思った。
溜息をつく間に考えたこと。
――ココから離れている場所におびき寄せるには、まず自分が動かなければならない。
なによりも、回りの人間を巻き込むわけには――
考えながら口を開いたというのに、返ってきた言葉は「私も逃げてきたのです」?
さすがにこれには、顔に出さないとはいえ度肝を抜かれた。
咲夜は雪音の声も気にせず、続きを話し始める。
「貴方にマザーを殺害されてから、私たちは貴方を探すのと同時に、第二のマザーをたてました。
宮古(みやこ)がマザーとなり、その下で活動を続けていたんです」
「なんだ。次のマザーは宮古か。…また、つまらない人間を上に置いたもんだね」
「しかし、彼女の実力は貴方もご存知のはず。宮古が後を継承するのは当然だと思」
「話がそれる。はい、次」
咲夜のセリフを途中でさえぎり、雪音は次を促した。
何か言いかけて――咲夜は小さく溜息をつくと続きを話し始める。
「……マザーの下で私達は動いていたわけですが、ある日、突然マザーの様子に変化があったんです」
「変化?」
「……彼女は、マザーの存在を確実なものにしようとしました。
強さ、威厳、カリスマ性。彼女に足りなかったものはなんなのか。
……マザーは、いつもご自分の力量のことを懸念していました」
雪音が眉をひそめた。
「――まさか、禁術を」
「…ええ。マザーは、禁術を。
強者の死肉を食むことで、自らを高める術を。
アレが大きな代償を伴うものと知っていながら」
雪音が以前住んでいた街には、禁術と呼ばれるものがいくつか制定されていた。
巨大な自治国家に存在するその街には、雪音のような人殺しを生業とする人間や、また、彼と同等の力を有するものも多く、それ故に定められた術があったのである。
中でも死肉を食むというその術は、使用した術者にも副作用が大きく、周りに多大な害を与えかねないとして常に言われつづけていたものだった。
「マザーは[壊れ]ました。
食せばいくらでも強くなれる、その術に取り付かれて、いつしか標的は私たちに。
力を手に入れた代わりに人であることを失い――組織は解体しました。
マザーを殺すのに皆精一杯で、そして私もその一人。自らの危険を感じて、こうして、逃げてきたのです。
……きっと貴方は笑うのでしょうね」
自嘲するかのように笑みを浮かべて、咲夜は最後のセリフを雪音に告げた。
「笑ってほしければいくらでも笑ってやるさ。
ただ、問題はそこじゃない。
逃げ出して、この街で俺を訪ねてきたってことは、俺に何か頼みたいことがあるんじゃないの?」
「…マザーに狙われています。
彼女を止めなければ。殺らなくては、私が殺られます。
都合のいいことをって思うでしょうね。
でも、お願いします。一人じゃ勝ちは見えません。
……助けて」
雪音は口の端で小さく笑った。
まったくもって都合のいい話だ。
自分があの場を逃げ出したときは反逆者だと殺しに来たくせに、いざ自分が死にそうになったら「助けてくれ」だと。
馬鹿馬鹿しい。助けてやる義理も恩も目の前のこの女にはない。
そうだ、自分は、酷い男になろうと思えば、いくらだってなれるんだ。
――が、しかし。
マザーが咲夜を狙ってくるとなれば、余裕はそんなにない。
この気にいってるヴィアレスの街にそんな危険なもん持ち込まれては困る。
大体、この街には、大切な人が数え切れないほど。
俺を頼るな、と言ったところで彼女がこの街から動かなければ意味のないことだ。
それならばいっそ彼女を殺してしまえば?
――ダメだ。そうなれば次にきっとマザーは俺を狙ってくるだろう。
咲夜には義理も恩もない、が、関わらずにはいられない件に触れてしまったらしい。
彼はそんな風に頭の中で話をまとめて咲夜に返事を――
「……咲夜。この話の続きは後だ」
「ええ」
唐突にそう言い放った雪音に、咲夜は小さく頷いて椅子から立ち上がった。
「玄関の前に人がいる」
雪音は呟くようにそう言って、全ての気配を絶ち、ゆっくりとそこへと歩いていった。
奇妙な静けさが部屋の空気を凝固させた。
1 † 2 † 3 † 4 † 5 † 6 † あとがき