次の日、私は外国人記者クラブの宿舎となっているインペリアルホテルにヒルを訪ねた。 暗いロビーで王政時代の遺物らしいニスの剥げた猫足の椅子に座ってヒルを待っていたが、 なかなか出てこないので一週間遅れの英語版ニューズウィークを新聞ラックから取りあげた。 主な記事をざっと租借しながらページを繰っていくと、一つのモノクロ写真で手が止まってしまった。 私はまるで雷に打たれたようにそのページに釘付けとなった。 それは黒いスーツを着た男が見開き1ページを占めている「ラルフローレン」の広告だった。

男は波が砕け散る荒涼とした海岸を背景に立っている。 肩幅の広いしかし無駄のないしなやかな体のシルエットが美しい。 彼は両手を腰に当ててこちらを見て立っていた。顔は斜め下に向けている。ヘレニズム文化のなせる彫刻のような完璧な顔の造作は美の典型であるが、 柔らかな黒いみだれ髪と睫の陰影が生命の息吹を感じさせる。 そして何よりも印象に残るのは神の恩寵を受けた人間だけが持つオーラが出ている。 戦慄が私を襲い、目を離すことができず心臓の鼓動が早くなった。 このモデルの放つオーラはこの私のそれと全く同じだったからだ。

素晴らしい!昨日掲示板で女たちが言っていたものはこれだったんだな。 爺の堅苦しいスーツや記者どものヨレヨレの背広ではなく、美しく若い男に似合うスーツとは! 汗を拭きながらヒルが現れた。彼は私に待たせた侘びを述べると、急に表情を変えて薄ら笑いを浮かべた。
「で、どうでした?昨日の掲示板。驚かれたでしょう?」
「まあ人様に褒められるのは慣れていますからねえ。別に何ともないですが、 アメリカの女性はなかなか愉快な方々だとだけ思いました。しかし」
「しかし?」
「キリスト教徒の服が敬虔な信者である私に似合うとは思えないのですが」

私は故意に思うことの逆を言ったのだ。ヒルが気の利く男であれば私の謙遜と誘い水を汲み取るはずであるが、 その容貌同様なら私が信仰心から不快感を示したと取ってしまう。これは一種の賭けである。
「いえいえ、すてきなスーツならあなたによく似合うと思いますよ」
ヒルの回答は期待通りである。そこで私は手にしたニューズウィークのページをわざとずらして彼の目につくようにした。
「あ、それです!そういうのがあなたに似合うと言ってたんですよ」
「あ?これですか?いやあ全然気が付かなかったなあ。ラルフローレンとは何ですか?」
「毎年上流社会やハリウッドスター御ご用達の高級服を作るデザイナーの名前です。 我々もポロシャツくらいなら買うことはありますが、1000ドル以上するスーツなんてとてもとても。 レディスもあるのですが女房が憧れてて買えと喚くんです。 安月給だから無理だと言ってやるとヒステリーを起こして、愛してないからだと責めて」
「それは苦労しますな。あ、ところでこの男性は誰ですか?」

話題がヒルの夫婦関係に移行しかけたので、私は軌道修正してやることにした。
「それはモデルです。あっ!その人アガさんにそっくりですね!」
そう、そう言やいいんだよ、お前の嫁のヒスなんぞ知るか、と心の中でほくそえむ。
「いやいや、でも少しは似てるかな?私もこんな服を着ればラルフローレンで雇ってもらえるかなあ」
「もしよかったら試しに着てみられますか?」

これだ!これこそ私の待っていた発言なのだ!私の智謀は万能なのだ!と自分で自分に喝采を送りたい気分だった。
「そうですねえ・・・あまり気が進まないのですが、 異教徒の服を着るのも彼らの心を理解する方法でもあるかもしれませんな」
私は上手い口実を設けてヒルにブランドスーツを調達させるのに成功した。 数日後ヒルは七色のインクでブルーミングテールと印字した古ぼけた紙袋をさげて私が働いている内務省にやってきた。 私はヒルを自室に通し、下僚に重要な密談があるので近づかないように厳命した。 いつもの愛想笑いを浮かべたヒルは汗を拭きつつアウトレットものらしいですがと断り、 スーツの上着を取り出し両手で広げた。
「羽織ってみられますか?」
ヒルの手助けを借りて私は上着を羽織った。 袖を見ると沈んだ鈍色の生地が客間の中央に据え付けられたシャンデリアの光を反射し年輪のような光沢が生まれている。 そっと手を触れてみると異国産の不思議な布は信じがたいほどの滑らかさで指の腹をすべりゆく。 女が纏う絹織物の柔らかさと緞帳の重さを兼ねた生地で縫い上げた肩のラインの美しさは 我々の衣服の上であることを認めざるを得ない。 残念なことにこの室内には鏡がない。手前に本棚のガラスケースがあったので代用して覗き込むと、 そこには見事にジャケットを着こなした姿の良い男が映っていた。 紗がかかったようなもどかしい像ではあったが、 あの雑誌のモデルと寸分たがわぬ美しい青年がそこにいたのを確認できたと断言しておく。

「よーくお似合いですなー。まるでアガさんご自身があつらえた注文服みたいですね」
私は天にも昇る心持であったが、喜悦をストレートに表現してヒルに借りを作ってはなるまいと、故意に難しい顔をした。
「サイズはまあこんなもんでしょうか?ちょっとそでぐりがきついですね」
「いや、私たちはそうして着ております」
「あなた方はたいそう窮屈な服がお好きだと勉強になりますね」
「WASP専用の服ですからね。我々はフォーマル以外は着ませんが」
「ともかく一度自宅でゆっくり試着してみましょう、ありがとうございました。返礼はのちほどに」

私は平坦な口調でヒルに礼を述べた。終始気乗りしない態を装い、自分のプライドとイメージを守ったつもりである。 いつもヘラヘラしているヒルの顔が会話が進むにつれ赤みを増していったのはどうにも不審だが、 ジャケットを羽織った私のあまりの神々しさにあてられ、同性ながらまぶしくて 気恥ずかしかったのであろうと解釈することにした。                                       

 

さて、自宅の地下室でスーツを身に着けた自分を三面 鏡に映して見た時の感動は、私の予想をはるかに超越していた。 シルクサテンと呼び名のついたしなやかな生地は完璧な均整を誇る私の五体にフィットした。 自慢の一つでもあるなだらかで広い肩のラインと引き締まった腰から伸びる長い足を惜しげもなく強調しており、 惚れ惚れする美しい男が三方の鏡面からこちらを見返していた。 もはやラルフローレンのモデルなど問題でないだろう。連中はおそらく知的レベルが低い。 それに引き換えこの私は・・・ムフフフ。 今政権内で問題になっているM外相が主張するように欧米文化になびく日が来るとは思えぬ が、 万が一そんな事態になっても一番に重要視されるのは才能豊かで西側的容貌を持つこの私に決まっている。 おっとこれは余談だった。つまり最高の美と色気を体現したら私になると言いたかったのである。

私はその後裏から手を回して入手した海賊版の映画ビデオのワンシーンの主人公を念頭において、 ビシッとスーツを決めてアメリカのミッドタウンを闊歩するビジネスマン、 仕事に疲れてタイをゆるめタバコをふかすセクシーガイなど、様々な人間の様々なポーズを試しながらつぶやいた。
「ムフフ。こんな姿をあの掲示板の女どもに見せてやったらあまりのカッコよさに卒倒するだろうな」
掲示板の存在を思い出し、急いでパソコンを立ち上げネットに接続した。 パキスタンの回線は頼りないのに、なんと今日に限って30分で繋がった。履歴を漁り、あの掲示板へ接続する。 これも案外スラスラと繋がったので、思わず神に感謝の祈りを唱えた。

「今日はアガたんがまた映ってたね」
「本当にカコイイね。映画に出てる男たちよりも美形!」
「長い睫と物憂げな瞳がいいねー」
「アガたんがヘクトールかアキレスのカッコしたら似合うだろうなー」
「バットマンに変身したら萌えるわー」
「うん、いいね。でも一度ポリスの服も着せてみたいな」
「わー!セクシー!上半身ヌード、制帽とガンホルダーだけでポーズを決めてほしー」
「ヌードと言えばナチスのSSもいいよね」
「あっ!それ絶対似合うよ。ヘルムード・バーガーに似てるもん」
「ナチスと言えば、リリー・マルレーン。ミック・ジャガーみたいにデートリッヒに扮装してほしい」
「にあうー」

こんなテンションの書き込みが続いていたが、私はモニタを凝視して必死でメモを取った。 プリンタはまだ未入手なのだ。日本の某社に言ってもってこさせなくては・・・ おっとメモメモ。えーっと、アキレス、トロイ、警官、ナチス云々。 政府官僚の大半は無学でホメロスはもちろんナチスすら知らないだろうが、 博学を持って鳴るこの私にはすぐにSSの黒い制服とトロイの戦士の白銀の甲が浮かんだ。 あれらは確かにそれぞれ美の一様式である。 私に似合うのか・・・自分がSS特攻服を身に付けたところを想像するとすぐに納得がいった。 ミック・ジャガーが扮装したデートリッヒとは何だか不明だが、きっと私に似合うのだから気高く美しいものだろう。 私はおもむろに明日ヒルに会おうと決意した。 案の定ヒルは私に面会を求めてきた。 一日置いたのは、私がリークする情報を用意する猶予を与えたつもりらしかった。

「スーツはお気に召しましたか?」
「西洋の衣服は合理的ですね。勉強になりましたよ」
「さぞお似合いになったことでしょう。私もスーツを着たアガさんを拝みたかったなあ」
ヒルの太った頬が緩む。本題へ入りたい私は少々じれったく感じたが、 ずぶとそうな容貌の割には駆け引きの上手い男らしく、払った代価の見返りを直ちには要求しない。
「あなたのお気遣いの的確さには脱帽しますね。あの連中も大枚でツラを張るのじゃなしに、 もっと細やかな贈り物をバラまけばM外相どのも折れるんでしょうが」

私が雑談めかしてリークしてやると、ヒルの瞳が輝く。
「ある高官はドイツ車を貰ったらしいですが、BMWの方がセンスいいと思いますがね」
一通りリークし終えると、ヒルは気分転換にとネットのBBSを印刷したものを私に示した。 それは昨日見たあの掲示板での私の話題だった。
「ものすごい人気じゃないですか。公式サイトを開設したらアクセスが集中して大変なことになりますよ」
「いやー・・・それほどでも。アメリカ女性は正直でストレートでいいですねえ。 しかし、このトロイだのSSだのは・・・」
「それらを実際にお召しになることも出来ますよ」
「?」
「コスプレに興味ありますか?」
「コスプレ?」
「コスチュームプレイといって、サードカルチャーとして認識されつつある遊びですよ」

 



 

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