「フン、あんたの車、らしいな」
私の愛車、ルノー・アルピーヌの助手席にいるジェラールの皮肉なつぶやきが、ハンドルを握る私の耳に飛び込んできた。
「どういう意味よ?」
これは誘い水だから無視するに限るとは思ったが、車に関して何事かを嘲っているので聞き捨てならない。
「アルピーヌは白じゃなきゃ嘘だよ。ま、真っ赤なんて如何にもあんたらしいけど」
やはりこの小僧は人の神経を逆なでするコツを心得ているらしい。車の色にさえ人を侮辱する材料を見出す。
(憎たらしさは相変わらずだ、あのまま帰らせればよかった)と私は再び悔いいつつ、シフトをトップに入れた。

ジェラールのパティオでの絶叫に困り、私は彼がアパルトマンに入ることをひとまず承知したが、アパルトマンの入り口の電子ロックを解除した後、彼がエレベーターでこちらへ上がってくる間に、リビングを大急ぎで片づけ始めた。テーブルの上に重ねてあった食器類をかき集めてキッチンの自動皿洗い機へ押し込み、散らかしていた新聞や雑誌を手早くまとめて片隅に寄せる。ソファの上に置いてあった衣類や帽子や装飾品をかき集め、何組もの靴と共に寝室に投げ込みドアを閉めた。
最近は残業続きで掃除も整理もろくにしていなかったので、あの小僧に見せたら何を言い出すか知れたものではない。その結果 、私はまたやり場のない憤怒に振り回されることになるのだから、先に予防しておくに越したことはない。 そして万が一、おかしな気を起こすようなら、すぐにセキュリティに連絡してやろう、あの時の『ラデュレ』での第一声は案外本音かも知れない、虫も殺さぬ ような顔をしている人間に限って・・・と私は考えて、セキュリティシステムを今一度確認した。

玄関のブザーが鳴った。私がチェーンを掛けたままドアを開くと、襟にムートンのついたこげ茶色のカーフのフライトジャケットをはおり、あのわざと破ったジーンズを小粋に履いたジェラールが見えた。
「さっきは随分と大声で怒鳴っていたし、どうやら大丈夫みたいだな」
彼は私の顔を確認するなり「じゃ、俺帰るわ」と、あっさり身を翻してエレベーターの方へ行く。私は彼の恬淡な態度に拍子抜けしたが、気が付いたらドアを開けて声を掛けていた。
「ちょっと、待ってよ。それだけを言いに来たの?」
彼は振り返って不思議そうに言う。
「そうだけど?元気そうでよかったよ。あ、エレベーター来たから」
「せっかく来てくれたのだから」
私は何を言っているのだと心中は思ったが、「お茶でも飲んでいかない?」と引き止めてしまった。何故か彼をこのまま帰すことに気が咎めたのだ。
「あんた寝た方がいいんじゃない?風邪引いてるんだろ?」
「もう治ったわよ。へんな真似しないと約束するなら入れてあげる」
いちごブロンドの毛並みを持った猫の瞳がキラリと輝いたような気がした。この時、すでに私は小僧の術中に陥っていたのかもしれない。

ジェラールは私の部屋について例のごとくあら探しをして、嫌みでも言い始めるのだろうと思いきや、大人しく黙って赤いソファに座っている。リビングに掛けてある絵は私の肖像画で豪華な額に入れてあるから、彼には嘲笑の格好の餌食になるのだろうと予測していたが、部屋を見分するでもなく、静かに私が出したエスプレッソを飲んでいる。予想に反した沈黙が続くので、しびれを切らしてこちらから声を掛けてみた。
「あなた、どこから通っているの?」
しかし彼は私の質問が耳に入らなかったのか、全く別の質問を返して来た。
「ハリール、もう具合はいいの?」
「ええ、大丈夫だけど」
これを聞いて彼の口調は急に陽気なものになった。
「じゃあ、ドライブに連れて行ってくれよ」
ドライブ?!この小悪魔はまた意外なことを言い出すものだ。今何時だと、と私が拒否しかけたら「まだ10時過ぎだし、明日は休みだろ?エッフェル塔のイルミネーションを見れば、きっと気分がすっきりするよ」と、密集した長い睫 を上げて蒼い瞳を殊更に丸くしている。仔猫がミルクをせがんで鳴いているようだ、なるほどジャンヌの言うのも嘘ではない、と私は思った。

夜のパリでは、毎夜零時まで光の饗宴が開催されている。エッフェル塔、凱旋門、オペラ座、マドレーヌ寺院、ノートルダム、コンコルドのオベリスクなど代表的な名所がライトアップされ、夜のパリのファンタジーを演出していた。ことに絵葉書にもよくあるシャンゼリゼ大通 りから凱旋門を望む光景は圧巻で、行き交う車のライトが光の線となり夜空に輝く凱旋門の星座へ結集していく。エトワール広場とはまさにこの情景に相応しい名前である。
星の広場のロータリーを回り、パリ屈指の高級住宅街16区を貫くクレベール通 りを進むと、その先にシャイヨー宮があった。パリ博覧会のパビリオンとして造られ、今は美術館として利用されている双翼の宮殿も、もちろん光彩 に覆われている。
「ここで止めて」
今まで黙って窓から夜景を見ていたジェラールが突然言った。私はその言葉通 りに車を止めたが、ここのテラスから望むエッフェル塔はパリ有数の観光名所なので、夜でも見物客がバスを仕立ててやってくる。なんだかおのぼりさんになったようで、私は下車するのを渋ったが、「いいから、いいから」と彼が急き立てるので、道端にアルピーヌを寄せて駐車した。

世界でもっとも美しく有名な塔とフランス人が誇るエッフェル塔は、昼間の精巧な鉄の美学の結集といった姿とは異なり、夜会に赴く貴婦人に変貌していた。パヴェダイヤを無数に散りばめた衣裳を纏った姿は優美ではあるが、秋の透き通 った天空に星屑を撒き散らしながら、黒い絨毯の上でメヌエットでも踊りそうな愛らしさも感じさせる。私は久しぶりにこの光景を見て、軽蔑していた観光客達と同質の感銘を受けた。
ふと傍らのジェラールを見ると、彼は私以上に、否、この場にいる誰よりも情熱的に光の塔を見つめている。長めの前髪が風で乱れるのも構わずに蒼いすみれ色の瞳を更に蒼くして瞬きもせず、小さな唇は固く閉じられている。よほどエッフェル塔が好きなのだろうか?しかし美を鑑賞しているだけには思えない何か強烈なものが、時折閃いているような・・・ 光の氾濫に魅入られた自分に対する憎悪を頑ななオーラに変換させて小柄な身体から発散しているような・・・ やはり何とも不思議な子だ・・・と、ライトが反映したその繊細な横顔のシルエットを眼で追いながら、私は感じた。
ともかく道端に止めた車が気になってきたので、私はまだ塔に見入っているジェラールを促してシャイヨー宮を後にした。

(この子、ピアスしているんだわ)
風で乱された髪から覗いた彼の左の耳のエメラルドのピアスは、光の塔から飛来した星屑と同じ煌きを放っていた。
「エッフェル塔が好きなの?」
私は車を発進させて、しばらく走って流れに乗ってからジェラールに訊ねてみた。
「俺が?」
彼はさも意外そうに問い返した。
「あの塔が好きかって?」
「私が声を掛けても気が付かないほどに見入っていたじゃないの」
彼は進行方向を真っ直ぐに見て答えた。視線の先には果てしない夜が広がっていた。
「俺は・・・あの塔はむしろ嫌いだな」
また天の邪鬼な返答で私をからかうつもりかと身構えたが、どうやら勝手が違うようだった。
「あの塔を目指していた人達が、俺の故郷に来たんだよ・・・」

私は訳が分からず説明を求めたが、彼は「シャルル・ド・ゴール空港へ行きたい」と言うだけで、後は貝のように黙りこくってしまった。私は閉口したが、アクセルを思い切り踏み込んでからハンドルを急に左へ切ったので後輪が烈しい音を立てた。車はスピン寸前で方向転換を果 し、体勢を立て直してから再び走り出した。アルピーヌは故障しやすいのでその点だけは気になったが、遠心力に振られた彼が座席で突っ張っているのを確認して少し溜飲が下がり、心の中でほくそえんだ。その後、空港へ続く高速道路に側道から合流した。

 

 

パリ市内から高速道路に乗り、北東へ30分ほど車を走らせると、シャルル・ド・ゴール空港が見えてきた。この1974年開業したフランスのハブ空港の斬新なスタイルは、当時話題になったものだが、今尚、円筒型のターミナルビルは古さを感じさせないで、宇宙ステーションを連想させる近未来的な偉容を誇っている。あまたのライトがに照らされた空港の周囲は真昼のような明るさで、行き交う車やバスは深夜も絶えることがない。私達は駐車場に車を止め、二つのターミナルの一方のド・ゴール1へ向かった。

ド・ゴール1は美しく個性的な設計として世界にも名高い建造物ではあるが、構造の複雑さと広大さで使い辛いのが欠点としてしばしば取り上げられている。しかしジェラールは慣れたパリの通 りを肩をそびやかし気味にして闊歩しているかのように、迷うことなく安々と人の波をすり抜け、有名な立体交差したチューブ型の歩く歩道を通 り、滑走路が一望できる最上階のデッキに到達した。
オープンデッキは当然吹きさらしであり、深夜の秋風は刺すように冷たく、私は持参したフューシャピンクのパシュミナをもう一度しっかりと肩に巻き付けた。ジェラールはメタリックな黒いナイキのスニーカーで階段を軽やかに駆け上がり、足元を気にしている私に構わず先に進んだ。ようやく追いつくと、彼はデッキの手すりに腰を掛けて足を宙にぶらつかせている。そして髪を向かい風になぶらせながら滑走路とその上に広がる暗い空を見ていた。

「あれはどこへ行くのかな?」
目の前では、エールフランス機が離陸体勢に入るため、ゆっくりと機体を旋回させて移動している。その向こうの滑走路では、ユナイテッド航空ボーイング757型機が轟音を上げて疾走し、テイクオフの瞬間へと驀進していた。
「アメリカだろうか?それとも・・・」
彼の表情はさきほどのエッフェル塔でのそれとは違い、無邪気な様子で空へ飛び立つ航空機に夢中になっているようなので、私は気軽に応えた。
「さあね。アメリカの飛行機だから、ニューヨークかしら?」
「あ、向こうからまた一機来たよ」
彼が指差した方向を見上げると、空港周辺のライトが反射してオーロラの前兆のごとく淡い光のベールが掛った空に、一等星ほどの間歇的に煌く光があった。それは次第に強くなりやがて大鷲のように翼を広げた瞬き星の主の巨体が、フランスの玄関口の上空に出現した。

「花の都パリへようこそ!たくさん買物してってね」
ジェラールはおどけて、日の丸を付けたジャンボ機に手を振った。その様子は毛糸にじゃれ付く仔猫のような無邪気さがあって、私は愛らしいと思わざるを得なかった。
(こうしていれば可愛い子なのに・・・)
私は、彼と並んでしばらく風に身を任せながら多くの飛行機の離発着を眺めていたが、急に空腹感を覚えた。帰宅してから今まで何も食べていないことに、ようやく気付いたのだ。
「ねえ、私お腹空いて来たんだけど・・・何か食べない?奢ってあげるわ」
「うん、いいね、それ。俺も実は腹ぺこなんだ」
彼は腰掛けていた手すりから勢いよく飛び降りながら答えた。

ジェラールは、シャルル・ド・ゴール空港、通称・ロワシー空港を熟知しているようだ。よくここへ来ているとしか思えない節がある。空港内での慣れた行動、そしてグルメ方面 にも精通しているようだった。私は近くにあるヒルトンホテルの24時間営業のレストランを考えていたのだが、「そんな年寄り臭いところよりも、下にうまいオムレットを出すカフェテリアがあるんだ」と彼が言うので、(それは安上がりで願ったりだわ)と彼の意見に従うことにした。SFXに登場するようなエスカレーターで地階に降りながら、彼はこちらを振り向いて笑った。
「安上がりで嬉しいだろう?」
やっぱり可愛げのない小僧だわ、とつぶやいた後、米式のスラング「FUCK YOU」を付け加えた。

彼ご推薦の地下のカフェテリアでのオムレットとサラダは、思いの他美味だった。それに雰囲気がよく、落ち着けるのは、旅行者が旅の合間の食事を楽しめるようにとの配慮だろうか。座席は適度な柔らかさで心地よい。時間はとうに零時を過ぎているので、さすがに人はまばらで、ジェラールの奇矯な発言を怖れて周囲を気にしながら話す必要もなかった。こんな時に限って小僧は素直になっていて、パンにバターを塗り付けながら音楽の話をしている。

「ハリールは80年代後半の音楽が好きなんだね。さっき車の中でずっとUSAサウンドが掛っていたからな。マドンナ、プリンス、ビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソン、e.t.c」
「デビット・ボウイも好きよ」
ジェラールはミネラルウォーターを飲んでから、口を手で拭った。
「ボウイ?あ、そういえばチャイナガールもあったな。でも奴の全盛期はグラムロックのジギー&スターダストだよ。だけどあんたの好みはヒットチャートばかりだね」
私は音楽には、はっきりいうと無頓着である。ノリのいいサウンドをBGMに車を飛ばすのが好きな私の為に、以前付合っていた男の一人が編集してくれたテープを、別 れた後もそのまま使っていた。

「あなたはどんな分野の音楽が好きなの?私のCDやテープの中にあったらBGMとして車の中でかけてあげるわよ」
私は、彼を帰りもいい子にしておく為に、好みの音楽を聞かせておくという策略を思い付いたのだ。
「ドアーズとかヴェルヴェットアンダーグラウンド、ブライアン・ジョーンズのいたころのストーンズかな。ジャズも好きだよ。マイルスのスター・ピープルは最高だな。ロリンズもいい。あと、チェット・ベイカー知ってる?彼はトランペッターだけど、ヴォーカルもいいんだ。退廃的で中性的で…そうだ、チェット・ベイカー・シングスは名盤だから聴いてみなよ。女ウケもいいから。俺は思い出にひたる時、よくかけてるの」

彼はいつにない熱心さで語り始めた。すみれ色の蒼い瞳がキラキラと輝き、白い頬がうっすらと紅潮していた。私には彼の語る内容の半分も解らなかったが、彼の青年らしい生気に溢れた表情は私が初めて見るものだったので、そのまま黙って話を聞いていた。しかしろくに知識もないと思われるのも癪でもあったので記憶の嚢を掻き漁ると、数年前、ナイトクラブか何処かで聞いたラップミュージシャンの名前に行き当たった。
「ラップミュージックでシャカールという人はいいわよね?」
彼は一瞬、目を大きく見開いたが、フォークを音を立てて置くと、腹を抱えて笑い出した。私は自分の無用を激しく後悔せねばならなかった。

私達は食事を済ませ、空港の屋外駐車場へ向かった。パリは緯度が高く、10月にもなると夜は相当に冷える。今夜は風もあり体感温度は更に低いだろう。私はドライブだけと思い、会社から帰ったままの格好で出てきたのを悔いた。せめてトレンチコートでも持ってくるべきであった。黒いピンストライプのスーツはウールとはいえ秋物で、ストール一枚では間に合わず、寒さに震えて数回続けてくしゃみをしてしまった。
「神があなたをお救いになりますように」
ジェラールはくしゃみをした人間に対する決まり文句と共に、自分のジャケットを脱いでこちらへ放り投げた。飛行士仕様のそれは、広がって空を舞い、弧 を描いて私の手元へ見事に着陸した。
「ほら、これ着ろよ。裏もムートンだからあったかいよ」
私は彼が黒いコーデュロイのシャツ一枚なので気になって聞いてみた。
「あなたはいいの?」
「俺は若いから大丈夫。年寄りは大事にしなきゃな。風邪引いたら肺炎になるよ」

何をするにしても一度は憎まれ口を聞かないと気の済まない小僧だとは思ったが、柄にもない彼の親切を無碍に退けるのも悪い気がして、私は白いムートンで裏張りされた持ち重りのするジャケットを借りることにした。肩に羽織ろうとそれを広げると、襟の裏側に『ポロ・ラルフローレン』の青いタグが縫い付けられているのに気が付いた。
(へえ、驚いた。いいもの着てるじゃないの。アメリカンブランドとはスノップな・・・)
ラルフローレンは、WASP、東部エスタブリッシュメントの子弟が好んで着るブランドである。 ストリート系の青年だばかりと思っていたジェラールとの取り合わせは意外だった

 



 

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