「ハリールってアラビア語で、絹という意味なのよ」
父が付けてくれた名前を侮辱された私は腹に据えかねて、その意味をジェラールに説明することにした。
「アラビア語?あんたアラブ人なのか?」
彼は、紅茶を啜るのを止めて、私を真っ直ぐに見た。
「アラブ人じゃないけど、父がアフガニスタン出身なのよ」

そうだ。私の父親はアフガンから来た黒い髪をした留学生で、パリ大学の同級生だった母と結婚して私が生まれたのだ。私の長くて豊かなブルネットの黒さは西洋人のそれとは違い、深い闇の色を呈している。この濡馬玉 の黒髪とエメラルドの輝きを持つ明眸は、母譲りの白い肌と共に私の自慢でもある。私は、向かい風の中、髪を靡かせ顔を上げて胸を張って歩くのが好きだ。すると道行く男達は私に西洋と東洋が融合して醸し出すエキゾチズムの香りを感じるらしく、彼らの視線を振り払いながら歩くのが心地よい。
しかし・・・この怪しからん小僧は、私を小馬鹿にしたような口を延々と聞き続けている・・・ 私はプライドを傷付けられた憤激を込めて彼を見たが、今までの皮肉で虚無的な表情は消えており、何故か真顔になっていた。

「じゃ、あんたイスラム教徒なんだな?何派?」
突然真剣な表情をしたと思ったら、聞いてくるのは人の宗旨のことか、と私はうんざりしたが、答えてやることにした。
「いえ、私はカトリックよ」
「何でカトリックなんだ?あんたのパパはイスラム教徒だろ?」
ソ連の侵攻が勃発し、当時留学中だった父はそのままフランスへ帰化した。それなら万事キリスト教の方が都合いいからと、母との結婚と同時に改宗したのだった。それを説明してやると、彼はまた元の投げやりな表情へ戻り、「ふうん。親御さんもあんたもつまるところ俗物なんだ」と言い、またウエイトレスの少女を呼び、私に断りも無く勝手に追加のオーダーをした。他人の家族を遠慮会釈もなく批判した上、追加注文をする厚顔ぶりに、私はまた呆れた。
しかし、この少年のような青年は口を開くと、必ず私の神経を逆なでする言葉を吐き出すのが分かっているので、(モンブランでもマカロンでもショコラでも何でも食べて、黙っていてくれる方がマシだわ)と、彼の僭越を叱責するのは得策でないと、言葉を飲み込んだ。しかし、彼がイスラムに関心があるということは、新発見だった。

その後、私はジェラールから例のフロッピーを隠した犯人の名前を聞き出そうとしたが、彼は密告は嫌だと言い、結局、彼にとっては昼食代わりだったらしいお茶代を支払わされただけで、私の目論見は失敗に終わった。
「これもいい?」
『ラデュレ』を出て、コリント様式のマドレーヌ寺院を通り過ぎると、彼は小さな一件の店のショーウィンドウの前で足を止めて、私の袖を引いた。 精巧なチョコレート細工の薔薇や動物がディスプレイされたその店の名は『メゾン・ド・ショコラ』。海外でも有名なショコラ専門店だ。

「あなた、あれだけ食べてまだ足りないの?甘いものばかり食べると太っちゃうわよ」
私は彼の甘党ぶりに驚いた。彼が食べたのは、確かマカロン4個、モンブラン1個、ショコラ数個、バゲットのオープンサンド・・・
「違うよ。俺が食うんじゃない。土産にするんだ」
「土産?」
意外な答えに私は問い返した。
「そう。女にやるんだ。ここのトリュフが食べたいって言ってたから」
(女にですって?そんなものは自分で買え!)
この大人を舐めた小僧を今この場で抹殺し得たら、
私はこの世で最も幸福な人間の一人であると自覚しただろう。
(だけど、これでフロッピーの件は帳消しにしてやれる)と思い直し、彼と共に店へ入ることを頑じた。

カカオの香ばしい匂いが満ちたその店内で、ジェラールは迷わず240フランもするトリュフとプラリネを詰め合わせた化粧箱を指差した。
「これがいい」
私は返答にしばし窮したが、これで厄払いだと固く決心しているので、黙って代価を支払った。
「リボンも掛けて下さい。プレゼントだからできるだけ綺麗にしてね」
彼は出てきた店員に包装についてあれこれと注文を出している。
(勝手にするがいい。この馬鹿ガキ。外に出たら早速言い渡してやるから)
私は、無邪気そうにガラスケースの上にひじをついて、包み紙を縦横に折りたたむ店員の慣れた手つきに見入っている彼を、鋭い視線で睨みつけていた。

「さ、もうこれでいいでしょ?今後は貸し借り無しと言うことで、付きまとわないでよ」
『メゾン・ド・ショコラ』から出ると、
私はすぐにジェラールから私の紙袋を取り戻して、ここぞとばかり厳然と縁切り宣言した。が、彼は、小さな唇に薄笑いを浮かべて、「ハリール、あんた焼いてんのか?女って気になる?」と返してきた。
(・・・焼くですって?!)
三度目の絶句だった。人間はあまりに呆れると言葉がすぐには出てこないという事実を、私は彼によって学んだ。
「じゃ、今日はここまでだな。またな、おば、いや、マドモアゼル・ハリール」

激昂寸前の私を残し、ジェラールは片目をつぶって手を振りながら、メトロに乗る為、マドレーヌ駅の階段を羽でも生えているかのような軽やかな足取りで降りていった。その姿は、「真夏の夜の夢」に登場するいたずら者の妖精パックを彷彿とさせた。妖精にとっては軽いお笑いかも知れないが、ほれ薬を間違えて与えられた四人の恋人達にとっては深刻な問題だったろう。

さて、人間の自制心の極限を越えた怒りはどうして収めようか? 何か狂暴な行為で発散せねば気が済まず、人目は気になったが、手に持っていた紙袋を思い切り舗道に叩き付けた。すると袋が破れて買ったばかりのばら色の絹のナイトドレスが飛び出してしまった。本日の私の損害に、お茶代、箱入りのショコラ代、靴の修理代に加えて、ナイトドレスのクリーニング代も加わった訳だ。

 

 

その後、しばらく私はジェラールと接触を持たなかった。と言うよりも絶対に無視し通 すと決めていたのだ。徹底して私を愚弄した彼の顔も見たくもないし、声すら聞きたくもなかった。実際は、彼が私の事務所に来ても、応対するのは秘書のジャンヌであるので関わらないでいられたが、彼女にもジェラールだけは通 さないように固く言い渡して置いた。
「あんないい子に冷たいんですね。仔猫みたいに可愛いのに・・・」
私はこれを聞いてますます不愉快になった。あの性悪猫は自分の見てくれが可愛いことを知っていてそれを上手く利用しているのだ。
「とにかく頼んだわよ」
私は腹立ち紛れにドアを力任せに閉めた。

さて、私の上司のゲインズブル氏のことである。彼は38歳の少壮重役でソルボンヌ大を優秀な成績で卒業。社内でも新進気鋭のやり手で通 用している。反対派によると、味方にすれば心強いが、敵に回せば非常に怖い男であるとか。しかし仕事一筋と言う訳ではなく、長身で細身の体にはアルマーニのスーツがよく似合い、ジタンヌを優雅な手つきで燻らせ、いつも知的で優しい微笑みを湛えている。車は黒のゲレンデ・ヴァーゲン500L。何故彼がオフロード4WDをというと、休日は実家のあるフォンテンブローへ趣味の釣にでかけたり、離れて暮らしている子供たちとキャンプに行く為であると言う。ちなみに彼は7年前、元女優の妻と離婚して、それ以来独身である。

私は入社時からこの人の持つ男のエレガンスに魅了された。学生時代の恋人達は彼に比べると、ステディが進化しただけのほんの子供のように感じられた。
「ハリール、頑張ってるかい?」
彼の輝かしい笑顔と優しい声で励まされると、天にも昇る心持ちで仕事へのモチベーションが沸き上がる。また、新入社員の中では、殊に私に目を掛けてくれているようなので、それが得意であったのだ。しかし、この為、彼の密かな恋人が秘書課のマリーと分かった時の衝撃と落胆は、今考えても酷いものだった。私のタバコの量 が増えたのもこれが契機だった。その銘柄は彼と同じジタンヌだったのだが。

その後、かなりの紆余曲折を経て私はやっと立ち直った。彼にはその点で恨みがあると言えばそうだろう。もちろん彼と私は単なる上司と部下に過ぎないし、彼に全く責任はないのだが。だが、あれこれ理由を付けて自分を納得させても、彼が私にとって憧憬の存在である事実には変わりが無い。
そのゲインズブル氏が、いよいよ晴れてマリーと正式に婚約すると今日知らされた。いつかこの日が来るとは覚悟していたから、前ほどのショックはないが、心の古傷が再び痛み出したのは事実だった。
「ハリール、婚約披露パーティには君もぜひ来てくれ給え」
「それはもちろんです。おめでとうございました」
笑顔で相づちを打てる自分に対して、大人の対応が出来るのは偉くなったものだとつくづく思う。しかしどうにも人恋しく、最近まで付合っていたオリビエのことを考えたが、別 れ際、あれだけ大見得を切った手前、こちらからは何も言えない。それに誰かにすがらねばならない時期はもう終わった。

自棄酒を飲むと反って惨めさが増幅されて、後の反動が酷くなる。私は自分のオフィスへは戻らず、ビルの下へ降りて喫煙コーナーでタバコを取り出して震える手を押さえながら火を付けた。
(早く家に帰って、お風呂に入って、さっさと寝よう)
こんな時はこれが一番だ。明日になれば気分も変わってまた展望が開けてくることを私は知っている。

私は偏頭痛を理由に終業の少し前に社を出て、サンジェルマン・デュ・プレの自分のアパルトマンへ戻った。それは就職した折祖父が借りてくれた、アールヌヴォー様式の優美な格子の入った窓からセーヌ川を望む部屋で、とても気に入って住んでいるのだが、パリの母なる川に映るノートルダム寺院のライトもさすがに今夜は色褪せて見えた。
寝室へ入ると靴を脱ぎ捨て、私はエタミンヌのファブリックでメーキングしたベッドに身を投げ出した。
(疲れた・・・)
連日の残業の疲れが一気に出てきたようだ・・・私はタバコを手にして仰向けに寝転んで、釣り鐘草型のシャンデリアの白熱灯のまろやかな明かりを無気力に眺め続けていた。

栗色の髪のマリー。聖母様と同じ名前だ。その名の通 りの人を包み込むような柔らかな優しさ。そう、新米の頃、初歩的なミスを犯しうるさ型のマネージャーに呼び出しを食らい頭ごなしに叱られ、萎れて出てきた私のために秘書室の裏でわざわざカフェ・オ・レを用意にして待っていてくれた。彼女の細やかな心遣いに触れた時、癒しを感じたのは私だけでないだろう。私は彼女が好きだった。だからゲインズブル氏がマリーに惹かれるのはよく理解できるのだが・・・
(やめた。考えるのは。さあ、バスタブにお湯を張って・・・)
私は、アラブの鞍を付けた黒馬の絵柄の付いた灰皿でタバコをもみ消した。本当は何もする気になれなかったが、このままいても仕方ないので気合を付けて体を起こす。奥にあるバスルームへ行こうとスリッパに足を入れた時、インターホンが鳴った。
(まさかオリビエじゃあるまい。誰?)
私は風呂は後回しにして応対した。

「俺だよ、ジェラール。今、アパルトマンの下にいるんだ」
インターホンの受信機から聞こえてくる男にしては高めの声は、まさしくあの小悪魔小僧のジェラールだった。これで萎えていた気分が一気に吹き飛んだが、また別 の不快さが到来した。
「ジェラール?あのメッセンジャーの?」
メッセンジャーという単語にありたけの侮蔑を込めて言ってみた。
「そうに決まってんだろ」
(何事だろう?突発的な事態でも発生しての極秘の召喚だろうか?)
私は瞬間、このように考えたが、それなら電話かメールの方が早いはずだ。
「何か大事なメッセージでも持っているのかしら?」
どうせ、また私を侮辱しに来たに違いない。それに自宅まで押しかけてくるとは、いよいよ呆れた小僧だ。
「あんたが頭が痛いとかって、ジャンヌに聞いたから、見舞いに来てやったよ」
(ほら、この言い草)
「そんなの結構よ。あんたの顔なんて見たらますます気分が悪くなるわ」
「わざわざ来てやったんだ。人に心配されてるうちが花だよ。素直になりなよ」
「さっさとお帰り!しつこいとポリスに連絡するわよ!」
私はこう言い捨てて、インターホンのスウィッチを手で叩きつけるようにして切った。

(最後に疫病神までご登場とは、今日は本当に厄日だわ)
今まで感じていた胸の痛みは消えていたが、今度は苛立ちと腹立ちが募ってきた。私は忌まわしいものを振り払うように昂然と顔を上げバスルームへ入った。そしてバスタブへ湯を張ろうと白鳥の形をした蛇口を捻った時、外で何事か絶叫するような声を聞こえてきた。
「ハリールー!」
どうもハリールと私の名前を呼んでいるようだ。
(まさかあの子が?)
窓に駆け寄りカーテンを開け下を見ると、暗いパティオの中心にジェラールが立っており、私の名前を大声で呼んでいる。

「ハリール!何を怒ってんだよ?マドモアゼル・ハリール!」
私はこれで何度目かの絶句をせねばならなかった。アパルトマンの他の住人も、この騒音に気付き、各家の窓には明かりが点り、人影が窓際に映っている。私に課せられた義務は、一刻も早くこの頭のおかしい小僧を黙らせて他の住人のプライバシーを守ることだ。私は窓の白い木枠に付いている金具を引いて顔を出した。

「あんた、何やってんのよ!恥ずかしくないの?やかましいじゃないの!」
「ハリールが意地悪するからじゃん。開けてくれよ」
「私を困らせて部屋に入り込もうという魂胆なのね!本当に警察を呼ぶわよ!」
するとこのやり取りを聞いていた上階の住人の罵声が飛んだ。
「やかましい!痴話喧嘩ならよそでやれ!」
「そうだ、そうだ!止めないと安眠妨害で告訴するぞ!」
「自分のツバメだろ?入れてやればいいじゃないか!」
いつのまにか非難の対象は私になっているではないか!それにツバメとは若い愛人を意味する隠語だ。
「私のせいじゃないんだから!この厚かましい餓鬼とは何の関係もないの!」
私は腹が立ってやり返したが、ジェラールはこれを聞いて我が意を得たりとばかりに叫んだ。
「ありがとう!皆さん!マドモアゼルは、心配して見舞いに来た親切な僕に意地を張っているんですよ〜!」
もう仕方ない。
「部屋に入れてあげるから、とにかく叫ぶのをおやめなさい!」
すると彼は、今まで以上の大声でこう答えた。
「おーい!あんたを犯そうなんて気はないから安心ろよー!」
周囲の窓から哄笑が沸き上がった。

 



 

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