「ナチスは、彼らは悪魔です」
裏庭のちっぽけな草花まで温かい愛情を注ぐ日向のような婦人から、僕らの仲間が日常的に使いまわしている不吉な単語を聞くのは、彼女の感情が沸点へ向かい湧き上がりつつあることを示していた。もちろんキリスト教徒の老女の言う悪魔とは、アメリカを意味しているのではなく、ルシフェルという堕天使のことだったが。
「彼らは初め国民の味方でした。ベルサイユ条約で戦勝国から法外な賠償を請求されて、ボロボロに疲れて破滅しかかっていた我が祖国ドイツに再び立ち上がる希望の光を与えたのです。ドイツ国民なら皆持っているゲルマン民族の誇りを思い出させてくれたのです」
民族の誇り。この言葉を口にしたローズマリーの横顔には、ドイツ婦人らしい毅然とした表情がみなぎっていた。人類共通 の、この気高く自然な感情はどんな圧力を受けても消え去ることはない。二つの世界大戦の間、欧米に翻弄され続けたアラブ世界。映画「アラビアのロレンス」では自分達の狡猾な詐欺と暴行をわずかながら垣間見せていたが、十分ではない。第二次世界大戦後パレスチナを取り上げられ、聖地を欧米と現地政府に傷つけられ、アラブの尊厳と大義を無残に踏みにじられている状況を、大戦を知るドイツ人なら理解してくれるかもしれない。すまない、アイゼン。これは余談だった。本題へ戻ろう。

「しかし開戦後の進撃が止まると、ナチスは各地でユダヤ人狩りを激しく行うようになりました。もちろん戦前からユダヤ人を取り締まる方針の政権でしたから、大都会ではゲットーが設けられ、彼らは黄色い星を付けてそこに集団で住んでいました。ええ、もちろん裕福な人々は外国へ脱出しましたよ。ユダヤ財閥がドイツの大銀行を経営し国を牛耳っていることを苦々しく思っていたドイツ人も多かったので、彼らのことを聞いても特別 かわいそうだとは思いませんでした。でも・・・ナチスはやりすぎました。アウシュビツ、ダハウ・・・後から事実を知った時、ドイツは世界に対してもう顔向け出来ないと思いましたよ」
ユダヤ!この忌まわしい呪われた民族。しかし僕はそ知らぬ顔をして彼女の話を聞き続けた。
「そのうち私の住んでいた町の近くにバイエルンの一個連隊が駐留するすることになり、非番の兵士が町に買物に来るようになりました。彼らは鉄十字の衿章を光らせた精悍なドイツの青年たちでした。私は母の言いつけもあり、彼らとは接触しないように心がけていましたが、南ドイツの陽気な青年たちは酒場でハメをはずすことはあっても、同胞である住民に対しては規律を守って共存していたんです。小太りの連隊長は、祝祭には音楽隊を町のお祭り広場に派遣して住民にサービスしてくれたものです」
ビールを酌み交わす大人たち、輪になって踊る女や子供たちと無骨な吹奏楽団。僕は牧歌的な光景を想像し微笑んだ。
「シュタイナーさんは人の多い場所は好まなかったのですが、町民のお祭りだからと町長たっての頼みで貴賓席にいる連隊長のためにドイツの古歌をピアノで弾くことになり、例のフロックコートを着てやってきました。音響効果 もない屋外で古ぼけたピアノがあてがわれただけでしたが、彼の演奏はやはり立派で、みんなは喜びまた踊りを続けました。私がダンスに加わったのと、黒い服の一団が入ってきたのはほとんど同時のことでした」

「『ここの責任者は誰だね?』コツコツと石畳を鳴らす軍靴の音と抑揚のない調子で氷河を連想させる声が凍りついた会場に響きました。黒い服の男達は、そうです。彼らはヒトラー親衛隊員だったのです」
僕らは話合ったことはないが、もちろん欧州を恐慌状態に陥れたドイツ軍の中でも特別 強固なこの黒い一群の存在を君は既知だろう。総統の名を冠した親衛隊なる彼らはよりすぐりのエリート集団で頭脳明晰容姿端麗人品いやしからず、身辺を警護し忠実で忠勤に励むが、敵国やレジスタンス、ユダヤ人の間では彼らの名を聞いただけで顔色を失ったほど恐怖されたという。ローズマリーは臓腑に体積した恐怖を吐き出す前兆としてかすかに震えていた。青白い顔色はいっそう蒼白さを増したが、彼女は続けた。

「親衛隊員は5,6人しかいなかったのに、圧倒的な存在感を以って私たちの間を恐怖で席巻しました。その先頭に立っていた背の高い男が一行のリーダーで、会場を戦慄させた冷ややかな声は彼のものだったのです。男の問いかけにバイエルン連隊の隊長は群集の間から慌てて出てきました。男は底冷えのする青い目で実直そうな隊長を見ると、黒光したブーツを鳴らして敬礼し自分の名前と階級とを名乗りました。『自分はベルリンの本部から参りましたハインリッヒ・フォン・ローゼンベルグ大尉であります。』上官に対しての言葉使いは階級制を重んじる軍紀通 りでしたが、総統閣下の直属という待遇に狎れた尊大さが態度からにじみ出ていました」
僕はこの後図書館でローゼンベルグ大尉の写真を探し当てたが、セピア色の古ぼけた写 真に写っていたのは、ヒトラーが理想とした金髪碧眼典型的なアーリア系の青年だった。あまりにも有名なSS隊員の紋章である、たすき掛けに重なった二本の大腿骨に髑髏のマークの帽章は、黙示録の獣の刻印として白皙の額の上で鈍い光を放ち、黒尽くめの制服にはハーケンクロイツの腕章が不吉な美しさを補強していた。また資料には、戦後ニュルンベルグ裁判で、彼がユダヤ人・戦争捕虜虐待の罪によりB級戦犯として死刑に処されたことも記されていた。

慈悲深いアイゼン。僕が何故ドイツ人の歴史や異教徒の受難について固執するのか不審に思うかも知れない。しかしローズマリーの逸話はある人物への僕の感情と重なっていくのだから、もう少し辛抱して欲しい。このドイツの年老いた語り部は、現在の僕の迷いを解くある重大な決心の要石になったのだから。
「ローゼンベルグは連隊長に本部からの指令書らしい書類を手渡した後、色の薄い青い瞳であたりを見回しました。冷え切った何の感情も宿さない眼、おお、私はあんな瞳はこれまで一度も見たことはありません。そうです。あれは死神の眼だったのです」

死神の眼。僕はその時は漠然と少年時代ハリウッドのホラー映画で見たステレオタイプな妖怪を連想しただけだったが、後年まさしくこれに合致する瞳に出会って戦慄した・・・
「彼の視線は、ピアノの前で手を止めたままのシュタイナーさんでピタリと止まりました。それまで無表情だった薄い唇に笑みが浮かぶのが見て取れました。シュタイナーさんの顔色は蒼白でしたが、観念したようにピアノから立ち上がりました。ローゼンベルグは軍人らしい規則正しい歩様で長靴をコツコツ鳴らして彼に近づくと、手にしていた儀杖でピアノを指し示し『私は今しがたここに来たばかりだが』と話かけはじめました。『つまらない民間の祭りには勿体無い腕だ。あなたは本職のピアニストですか?』シュタイナーさんは意を決したように自分が指揮者であることを告げました。彼はもう一度凄いような微笑を浮かべると『君が指揮するワグナーをぜひ総統にお聞かせしたいものだ。』この後、彼は指令の細部を確認するため、連隊長と街に設けられていた詰所へ去っていきました。その後も祭りは続けられましたが、誰もが黒い服の男達が闖入する前のような晴れやかな気持ちにはなれませんでした」

 

 

そしてシュタイナーがユダヤ人だったことが、この後判明して事態は急展開を迎える。
「あの祭りから数日後、私は放課後友人と歩いていました。丘の前に差し掛かると、シュタイナーさんの家の回りに人だかりが出来ていました。家へ続く道の入り口にはメルセデス製の軍用トラックが一台無骨な鉄色のバンパーを光らせ駐車しています。不吉な胸騒ぎがしました。私たちもその人垣に加わりました。大人の頭が視界を遮り何も見えません。その中で家族が懇意にしていた家のご隠居さんの銀髪を見つけ、この向こうで何事が進行しているのか尋ねました。『これからシュタイナーさんが逮捕される。親衛隊が彼を連行しようとして家の中にいるんだ』私が驚いて老人の顔を凝視すると、憐憫と諦念の入り混じった表情が浮かんでおり、彼は静かに付け加えました。『気の毒に・・・』すると前にいた農夫らしい中年の男が振り向きました。『あいつはユダヤだったんだ。今まで隠していたとは太い野郎さ。気の毒なもんか』しかし老人は『私は昔からあの一家を知っているが模範的な立派な家だったのだ。罪も無い人をユダヤの血が入っているからという理由で逮捕するのは間違っている』後で聞いたことによると彼のお母さんがユダヤ系だったという理由でした。農夫は老人の発言に鼻白み、声を潜めて付け加えました。『じいさん、黙ってた方が利口だぜ。聞こえたらタダじゃすまねえぞ。ほら、隊長のお出ましだ』轟音が聞こえたかと思うと、ドイツ軍のオートバイが止まり、取り付けられたサイドカーから、ローゼンベルグが降り立ったのでした。

親衛隊の長は黒いマントをバイエルン連隊の従卒に預けると、やじ馬たちには眼もくれず真っ直ぐに白い家に向かいました。人々の上には恐怖と好奇心の入り混じった沈黙が流れました。私は友達の存在を忘れ、物見高い人々の間を掻き分けて最前列へ出ました。ローゼンベルグが家に入り10分も立たない内に、シュタイナーさんが出てきました。彼はいつものフロックコートを着て街の本屋かどこかに出かけるかのように淡々としていました。全く普段と変わりない様子だったのです。両脇に黒い制服のSS隊員が、後に銃を構えた灰色の制服の兵士さえいなければ。シュタイナーさんは彼らを運んできたトラックの後部に乗せられて住み慣れた家を後にしました。白い家はそのまま廃屋になって朽ち果 てました」

「彼が連れ去られた後、固唾を呑んで見守っていた人々の緊張はほどけ、あれこれと噂をしあいながら思い思いの方向へ散り始めました。『ローズマリー、もう帰ろうよ』ブロイデが私を促しましたが、頷じえませんでした。家の中にはまだSSの指揮官が残っています。恐ろしくもありましたが、ことの顛末を最後まで見届けてやろうという好奇心がより勝っていたのです・・・それからしばらくして、古いオーク材の扉が重々しい音を立てて開き、5.6人の黒い男達がローゼンベルグと共に出てきました。ローゼンベルグの様子は彼の部下である他のSS隊員とは明らかに違っていると思いました。その気品に満ちた面 持ちや典雅な物腰からは、彼が領主階級の出身であるのが一目で見てとれました。端整な横顔には、代を重ねて熟成された血の冷たさという複雑な遺伝が現れていたのです。私は残酷さと優雅さはヤヌスの鏡でもあることをこの時実感しました。

ローゼンベルグが車に向かって歩みかけると、横にいた部下が何事かを耳打ちしました。自分達の主人が薄い唇を緩めたのを見た忠実なしもべたちはすぐに引き返しました。彼はかすかな身振り一つで部下を意のままに操作するすべを心得ていたのです。男達は、私が前に覗き見した時に見た蓄音機と数枚のレコードを抱えて戻ってきました。『フィリプス社製の高級品と大尉殿のお好きなワグナー全集であります』ローゼンベルグのブルーグレーの瞳がキラリと光ったのが見えました。『ワグナーは誰のタクトかね?』『クナッパーツブッシュでありますが、よろしいでしょうか?』ローゼンベルグは、髑髏の不気味な帽子を取り、ほとんど色のない金髪を整えて被りなおしました。『我々だけで聴くのであれば差し支えあるまい。ベルガー曹長、私は数年前ベルリンのオペラハウスで、彼のワルキューレを聴いたが、あれはまさに至高の楽劇であったよ』『では今晩宿舎にご用意しておきます』部下達はワグナー好きな上官のために気を利かせて、シュナイダーさんの蓄音機とドーナツ版を家から徴発したのでした。
私以外にも数名の人間が残っていましたが、ローゼンベルグはまるで私たちが路傍の雑草であるかのように、一度も眼をくれませんでした。彼は、他人を人間とは見ていなかったのです。 私は彼ほど冷たい眼をした人間をいまだかつて見たことはありません」

ここでローズマリーの話は終わった。怜悧なるアイゼン。当時の僕は、シュタイナー氏の受難の物語を我が身には全く無関係の過去の大戦の一場面 として受け止めていた。ナチスの選抜エリート集団のSSという存在には興味が湧き、先にも話したように図書館でローゼンベルグの人となりを調べたほどであったが、それ以上ではなく、じきに日常に忙殺されて記憶の底に沈んでしまった。この領主階級出身の端麗なSS隊員の存在が蘇るのは、ある人物との邂逅を待たねばならなかった。
その人物とは、僕が尊敬、畏怖、そして密かに憎悪を捧げている我々のリーダー、偉大なる計画の立案者であり遂行者であるアッタだったのだ。
アッタとは、休暇中にハンブルグで手広く輸入業を営むシリア人の紹介で出会った。
「非常に有能な男がいる」
アラブの現状を憂う商人は、その男について端的に述べた。 僕はアッタを見た時、その瞳の冷たさに驚いた。彼は努めて愛想よく柔和に微笑んでいた。しかしその実直そうな面 輪からは、鈍色の髑髏の印を頂く黒衣のローゼンベルグが連想されたのである。想像の中の収容所での彼は、ガス室の色ガラスをはめた小さな丸窓から、哀れなユダヤの囚人たちがもがきのた打ち回っている様を、ビーカーの中の化学変化を見守る研究者のまなざしで眉一つ動かさずに観察していた・・・

我々ムスリムのあらゆる不幸の原因である不倶戴天の敵ユダヤ人の迫害者もまた敵である。そんなものを敬虔な信仰心を有するアッタをなぞらえるのは明らかにお門違いであり全くの暴論かも知れない。しかし人間の系譜は人種や宗教を超越して存在する。アッタとローゼンベルグは同じ体質の人間だ。この思いはアメリカへ来て、アッタと偉大なる計画に邁進すればするほど僕の中で確信に変わって行く。そしてドイツでローズマリーがローゼンベルグの末路について述べた言葉が蘇る。
「死刑になったB級戦犯について近頃復権の運動もなされています。ローゼンベルグも時代の犠牲者なのかもしれません。戦争さえなければ彼に相応しい仕事をまっとうしたでしょう。しかし実際彼は多くの罪の無い人々の命を奪いました。悪魔に心を売り渡した彼は天罰を受けるべくして受けたのです」

悪魔に魂を売り渡す。まさにアッタはそうではないのか。彼は偉大なる、しかし恐るべき計画を推進している。科学者が真実の使徒としてわずかな疎漏も見逃さないように、彼も計画のほころびを的確に察知し、抉り出す。僕は臆病風に吹かれて彼の指示に反した同志が処理されるのを数度見た。その時の他の仲間たちは、北洋の氷山ほどの質量 を持った彼の意志に圧倒されて無言だ。もちろん僕も沈黙している。被疑者は手振り身振りをまじえて命乞いをするが、アッタはいつもの無表情で報いる。彼の薄い唇がわずかに動き、それを決して見逃さないアルオマリが側に控えているアルシェヒ兄弟に耳打ちする。彼らは強い腕っぷしを発揮し、涙と錯乱で正気を失った男をひきずっていく。この間アッタは眉毛一つ動かさない。一言「最後の慈悲を施してやるように」とだけ屠殺者に告げる。隣の部屋から聞こえる長く尾を引いた断末魔を聞いた男達は、それぞれ個性に見合う反応を示す。飛び散る血を思い浮かべて興奮する気性の激しいもの。気の弱い質の男は唇を噛み締め青白い顔をうつむけて耐えている。死体と血潮に慣れたものは日常と同じ顔色で聞き流すが、それは学習によって習得した無関心である。しかしアッタだけは、悲鳴の質と屠るのに要した時間の相関関係を、推測して図式化するごとく冷たい光に満ちた理知の中で静まっていた。

 



 

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