第11章 偉大なる計画とささやかな復讐

 

2001年9月9日

永遠なるアイゼン。今、僕は愛車でフリーウェイを走っている。この緋と流線型のボディが美しい日本車が「日蝕」という名前を持つことはどのようなめぐり合わせなのだろうか。僕は一人エクリプスを運命の地ニューアークへ、そしてそこで待つアルナミの元へ向けて駆っているのだ。

ボストンからの道では、右手に位 置するアパラチア山脈が黒々と長い稜線を描いて横たわっているのが、車のライトをかすめて時々浮かび上がって見える。晩夏の湿った空気は、太陽が消えた途端に闇と共に到来する秋の香気に入れ代わり、僕の最後の夏は過ぎ去ったのだと、改めて感じざるを得ない。
君も知っているように、僕は花盛りの春、熱砂の舞う夏や白銀の峰々が光る冬など、四季それぞれの特徴を愛していたが、もっとも愛した季節は神々が人間に与えてくれた豊かな実りの季節、秋だった。だがもう再び大地と神に敬虔な祈りをささげ、祝杯をあげて輪になって踊る素朴な人々と、僕の好きな秋を楽しむことはないだろう。当然ドイツの黒い森がはぐくんだ収穫祭のビールを味わうことも永遠にないのだ。しかし僕自身の心持ちは清明であり、一片の曇りもない磨きぬ かれた鏡のように冴え渡っている。故郷から遠く離れたフロリダで過ごした僕の最後の季節は、素晴らしい夏だった。生の実感と歓喜に満ち溢れた充実した日々を人生の終わりの部分で知ることが出来た僕を、君は祝福してくれたまえ。僕も君を祝福する。僕の人生を香油を振りかけて芳しいものにしてくれた君を。

完遂まで二日を数えるだけとなった大いなる計画の総司令官たるアッタの元へ集まるブレーン達、いつもハニ、ナワフ、マルワン、スカミ、そして僕の5人と顔ぶれは決まっていた。
アッタも入れた6人が中枢として指揮系統を司り、異なる4つのルートを通って末端までに指令のインパルスを的確に伝達する仕組みだった。この作戦の責任者であるアッタの元に何度も集まり、綿密に計画を練り上げ、細部まで検討し、連絡員より新しい情報が入るたびにシミュレーションを作り直し、その回数たるや数えるのも萎えるくらいだった。また責任者達は、それぞれ「兵士」役の若者達を指導し、鍛えあげ、監視することに精魂込めて奔走した。ここまで一人の脱落者をも出さずに組織を運営してきたことは稀に見る奇跡であり、僕らが己を誇っても決して僭越ではないのだと自負している。

しかしわずかな疎漏も許されない機密の殉教作戦において、一糸乱れぬ 支配体制を確立した功労者はやはり、カイロ出身のアッタだった。僕らの成功も彼の力に負うものが大きい。僕はこの底冷えのする眼を持つエジプト人の能力に驚嘆している。僕は学生時代に彼の母国エジプトを訪問したことがあり、夕日に赤く染まったギザの大ピラミッドを見た。完全な三角錐の巨大建造物は数千年の時を経てもその威容はゆるぎなく、ファラオの栄華を今に伝えている。僕は思うのだ。この壮大なプロジェクトを成功させたのは、アッタのような男であったに違いないと。その男はエジプト王の想像を絶する権力をバックにその超人的な才能を遺憾なく発揮させたと想像する。そして今、彼らの末裔であるアッタは、大義名分を聖戦に置き、スポンサーは希代の英雄ラディソ様、そして花崗岩を積み上げる労働者の変わりとして鬱屈したアラビアの青年らを得て、この偉大な計画で彼の才能を世界へ示そうとしている。

辣腕家の性質とでも言うのだろうか、アッタの権謀においては善悪はもはや彼岸の彼方にあるらしい。僕は近頃、彼の宗教は我々と同じものであるが、その精神は彼が留学していたドイツのかつての姿、第三帝国のそれに酷似していると、感じるようになった。ヨーロッパ中を席巻したナチズムの嵐と同質の冷酷と狂乱が、彼の根底を形成しているように思えるのだ。僕らに対して、聖戦とラディソ様に絶対的忠誠を誓わせ、徹底した密告と相互監視を奨励して飽むことを知らぬ アッタは、ゲシュタポのやり方を踏襲している。彼の胸算用ひとつで、僕らは干潮の朝、青黒く膨れた姿となって砂浜に横たわるか、あるいは小さく折りたたまれて箱に詰められ、シェラ・ネバダの山奥で土に還る身の上になるはずだ。実際、彼の危機感知センサーに触れてそのようになった同志が数名いるのを僕は知っている。 彼は、僕らに恐怖のムチと人間不信の拍車を容赦なくあてる。そして一人一人を精神的に限界に追い詰めて、人が生まれながらに持つ自然で懐かしい感情、愛とか優しさとかぬ くもり、そういう類の幼い日の記憶に通じるものを放棄させ、感情のないマシーンとして調教することに成功しつつあるのだ。

彼の意志が通過した後には、何らかの犠牲が累々と骸の山を築いていることに、皆は気が付かないのだろうか。ナワフやマルワンたちは、彼の理論の華やかさに幻惑され、僕一人だけ醒めて彼の野心の行く末を見つめているのだろうか。 裏切り者と異教徒に死を。これは正論だ。僕は否定しない。偉大なる計画が実行された暁には、砂浜が美しいロングアイランドに、木々で囲んだ芝生の中にある家を持ち、日曜日ペンキ塗りを楽しむような善良な人々をも道連れにすることになるが、これについては僕なりに自分を納得させていることは前に君に話しをした。
しかし同時に、心の根の深い部分でどうしてもアタのやり方に容認出来ないものがあるのを、僕は認めてもいる。

 

 

情け深いアイゼン。君は、僕がドイツで下宿していた、ローズマリー・フェスラーさんを覚えているだろう?そうだ、あの絹糸のような白い髪を持つ女流画家だ。彼女はいつも陽光の差すハンブルグ様式の窓辺に座り、一人で油絵を書いていた。絵の具を付けた何種類もの筆を使い分ける老いた手は、しわだらけだがたくみに動き、汚れたパレットから色を掬い取り、キャンバスに命を吹き込んでいく。黒い線で乱暴にかかれたデッサン画が、時間の経過とともに次第に美しく芸術に変化するのが不思議な魔法でも見ているようで、僕は飽かずに眺めたものだった。今は笑い話だが、君は僕があんまり熱心に彼女の絵を見ているので、あろうことか僕と彼女の間を疑って、泣いたことがあったね。彼女は身持ちのいい老未亡人だし、僕は君というこの世の薔薇を持っているのだから、全くの誤解だったのだが。

あの時、彼女は長年の病で臥せっていた夫を亡くして孤独だった。僕は一部始終を見ていたが、あの嘆きようでは彼女の命も風前のともし火のように思えた。そこで彼女のつれづれを慰めるため、僕の肖像画を依頼した。彼女は気が進まないと一旦は断ったが、ケルンに住む娘夫婦の薦めもあり、依頼から一ヵ月後ようやく筆を取った。
話が後先になるが、そこで完成した肖像画が、君と一緒にレバノンの僕の実家へ帰った時、僕の美しい母にプレゼントした絵だったことは、君も承知しているはずだ。あの絵は、僕が悲しくなるほど母が喜んだよい出来だった。これでいかにローズマリーさんが精魂込めて描いてくれたか解るだろう。彼女は毎日一定の時間になると僕の絵を描いた。光線の微妙な加減で色彩 が違ってくるそうだ。画家の繊細な神経に僕はそんなものかと、感心したものだった。彼女は僕にポーズを取らせて描き続けたが、怠慢なモデルに疲れが少しでも見えると、立ち上がってお茶とビスケットを運んできた。ビスケットには薄いアンズジャムがサンドされていて、ほのかな香りと甘酸っぱい味がした。ローズマリーさんは、皺の深い長い指でそれをつまみあげて、これまた皺のよった口もとへ運んで、アップルティーを一口すすってから話をした。それは彼女が幼い頃聞いた御伽噺や育った村の祝祭の話、ある時は亡き夫との馴れ初めや、黒い森で過ごした休暇の話と取りとめがなくたわいもなかった。
しかしある日の彼女の話は、衝撃を与える内容だった。

その話きっかけは意外なことに音楽だった。
僕はあの当時は無関心であったが、今は祖国レバノンの属する世界の文化をこよなく愛し、そして誇っている。我々の文明は先史時代より発達し、ウマイヤ、アッバースの両家が強大なサラセン帝国を形成し、科学的で洗練された先進国として欧州に先駆けていたのだ。現在、彼らに独占された状態の化学、建築学、医学などの諸学問も元は我々の先達の優秀な知性の産物であることが多い。例えば今の西洋文明の原点であるゼロの観念は我々の先祖の発明によるのだ。
それに代々有力な王朝が栄えると、当然のこととして王侯貴族の豪奢な宮廷を彩 る華麗な文化の花が開き、そこには必ずくじゃくの羽の扇を持つ屈強な奴隷が守る金銀財宝に埋もれた玉 座があった。その周りには奢侈に憑かれた人々が集い、果てることのない酒宴に明け暮れていた。金細工の食卓には芳しい美酒と趣向を凝らしたご馳走が溢れ、管弦の音は絶えることなく鳴り響いた。日夜を問わぬ 饗宴の放蕩は神の御意思には反するものであったのは確かだが、また文化の担い手でもあった。王宮の文化が庶民の活気に満ちた城下町のスークにも伝わり、音楽に合わせて着飾った踊り子が舞い男達が手拍子を取る賑やかな情緒に繋がっているのだ。君も出席した親族の結婚披露宴のダンスでも、僕らはレバノンの古歌に合わせて存分に踊ったものだったね。あの時、実は疲弊していた僕の神経にとって故郷の音楽はまさに癒しだったのだ。

しかし僕は今尚、西洋のクラシック音楽の合理性科学性近代性そして、月並みな言い方だが、素晴らしさには脱帽せざるを得ない。彼らの楽は音符という記号から成り、それらをマエストロと呼ばれる音楽家が組合すと、一つの宇宙、人間の存在を超えたもの─真理、と彼らは言うが、浄界を超越した世界へ聴衆を連れ去る力を発揮する。
西洋音楽でもドイツの音楽は格別その傾向が強い。人の魂を根源から探り、揺さぶる重厚な哲学に貫かれている。クラシックと言えども、元来フランスの軽快な音楽の方がアラブの庶民的な音楽にも通 じるものを感じて僕の好みであったが、ドイツの古典ではワグナーを聞くこともあった。
僕にワグナーを薦めたのは、航空工学の担当教授ディートリッヒ氏だった。ドイツ人の魂を理解するのに最適だからと、自分の愛蔵のCDを貸してくれた。
ヴァイエルンの精神を病んだ王の寵愛を集め、美しい王国を食いつぶす寸前までに金を引き出し追放されたシニックな作曲家の作る楽劇は、僕にはあまりにも難解ですぐに投げ出したが、それでもタンホイザ行進曲だのワルキューレだの耳障りがよく一般 的なものはすぐに馴染んだ。ドイツの古い騎士の幻想的な物語を題材にした格調ある音楽は、ドイツ国民の財産として親しまれている。だから絵のモデルをする合間のお茶の時間に最適な話題として、ごく自然にワグナーの名を持ち出したのだった。

その時のローズマリーさんの態度は、いつものように青い花模様のティーカップから立つ甘い香りを楽しみながら少ししわがれた優しい声で相槌を打つ彼女に慣れていた僕には予想外のものだった。
元々白い顔色は卵型の輪郭付近から蒼みを帯び、とび色の丸い双眸には険しい光が宿して、乾燥して口紅のよれた唇を引き締めてワグナーについては一言も語らず沈黙した。
僕は思わぬ彼女の反応に狼狽した。ドイツ有数の巨匠の名は彼女にとって心の奥に隠蔽した過去の哀しみに繋がる何かを意味しているのだろうか?
「あ、あのローズマリー、僕は何か悪いことを・・・?すみません」
僕が恐る恐る声を掛けると、彼女は我に返ったのか、すぐに硬い表情を解いて眉を開いたが、狭い眉間には、まだ感情の綾の残滓が漂っていた。
「ごめんなさいね。あなたのせいじゃないのよ。ジアド、ごめんね」
「それなら安心しましたが、でも今日はもう絵はやめた方が・・・」
「いいのよ。大丈夫。ワグナー自体が嫌いな訳じゃないの。でもね」
彼女の持ち前の優しい心根は、僕の塩水に打たれた青菜のような状態をそのまま見過ごせず、自分の感情を揺さぶった原因とワグナーの関係を打ち明ける気になったらしい。僕はしばらく1942年の冬のドイツに思いを馳せることとなった。その頃全欧州は第三帝国・ナチスの暗雲が完全に覆いつくされていた。

「・・・シュタイナーさんという人が住んでいたんですよ」
ローズマリーさんは染み入るような声色で語りだした。
「音楽大学を出て外国に留学し、大学に席を置きつつ音楽家として演奏活動していたらしいけど、体を悪くして故郷の町へ戻ってきました」
「彼はそんなに若くはなかったけどハンサムで、外出する時はいつもきちんとフロックコートを着て赤いタイを結んで楽譜を抱えてるのを見て、私たち女学生は噂したものです。彼がどこの店に立ち寄って誰それの未亡人と話をしていたとか、こちらを見たとか」
要するにシュタイナー氏は都会の匂いを身に着けた知的な存在だったらしい。十代初めの健やかな汚れない少女にとって憧れの大人だったのだろう。その証拠に彼女のかすかに白みがかったとび色の瞳は乙女の頃のつぶらさを取り戻しつつあった。
「丘の上の赤いスレート屋根の家に一人で住んでいたけど、休職中の彼が何をしているかは不明でした。私は友達とあれこれ詮索して飽くことがありませんでした。女の人がいるとか、悪魔に音楽を捧げているとか」
シュタイナー氏は当然のことながら自分達とは様子の違う他所者へ向けられる好奇の目でも見られていたらしい。娯楽の少ない当時のこと、彼女らにとって憧れの騎士であると同時に格好の観察対象にもなっていたようだ。
「私は親友のフロイデと一緒に彼の庭にこっそり忍び込んだのです。昔はこれでもおてんばで通 っていたんですよ」
彼女は昔のローズマリーに戻っていたずらっぽく笑った。
「本当は怖かったけど好奇心が私たちを窓辺に行かせました。いつも閉まっている白い雨戸が開いていて、中が見えるの。窓ガラスは汚れていて薄暗かったけど、立派なマントルピースでは火がくべられているのが見えたわ。その横の革張りの椅子にはシュタイナーさんが座っていたの。マイセンの高価なティーセットでお茶とお菓子が用意されていた。でも彼はお茶には手をつけず眼を閉じて座っていた。その前には蓄音機があった。蓄音機ってジアドはご存知?百合型のスピーカーがついてて、手でハンドルを回してレコードを聴いたのよ。そう、彼は音楽が聴いていたの。窓からも漏れ聞こえてきたけど、私がそれまで聞いたことのない音楽だったわ。静かな、それでいて力強くて・・・。それがワグナーのローエングリンだったということを知ったのは、随分後のことよ」

僕はシュタイナー氏の逸話は、それはそれで興味深いことだと思ったが、早くワグナーを忌避する理由が知りたくもあった。彼女とそのシュタイナー氏の間に個人的ないわくが付いたのかと思ったが、彼女の話がいきなりワグナー好きの音楽家からナチズムの非難に飛んだので、面 食らった

 



 

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