ブラブラと30分ほど歩くと、井の頭線の駒場東大前駅近くにある潤のワンルームマンションに着いた。無機質な白いタイルのエントランスから真っ赤なドアのエレベーターに乗り込むと、潤は7階のボタンを押して言った。
「赤いドア、いつも食べられちゃうような気がして、おっかない」
「悪さばっかりしてるから、えんまさまにお仕置きされるような気がするんだろ」
カードキイで自室のドアを開けると、ベッドと机だけで手狭になっている室内に入ってギターを置くなり、潤は棚から参考書を取り出してページを開いた。
「勉強する。ノブさんベッド使っていいよ」
「勉強?今からするの?ちゃんと眠って明日やったほうが効率いいだろうが」
「今する。やばい、来週から期末テストだから」

結局、明け方まで勉強したものの何も頭に入らず、潤はベッドで眠っているノブの横に転がった。部屋には時々終電を逃した仲間が泊まりに来ることがあるので、その内の一人が「寄付」した寝袋があったが、ノブが熟睡しているのを見て、潤は狭いシングルベッドでノブに寄り添って眠った。潤には、同性愛的な欲望はまったくなかったが、単純に人肌に触れたいという幼児じみた欲求があった。この癖が誤解されて松崎のような下心のある人物に隙を与えることになるのだが、その隙が具体的にどんな発展をするのか、世間知らずの潤には想像できなかった。

目覚めると正午を回っており、ノブはもう出かけたらしく、机の上にコンビニのサンドウィッチとスナック菓子、冷蔵庫の中にサラダとオレンジジュースが入っていた。潤はサンドウィッチを半分食べると、ビタミン剤の空き瓶に入れたエフェドリンを4錠取り出してオレンジジュースで流し込み、机に向かった。喘息の治療薬であるエフェドリンは覚醒剤の原料でもあり、安価で効き目もマイルドだったので、手持ちぶさたな時に服用するドラッグとしては丁度良かった。

 

 

案の定、試験の結果は惨たんたるものだった。夏休みの補習はまぬ がれたものの、両親に成績表を見せ、説教されている自分の姿がありありと目に浮かんだ。都内に実家があるにもかかわらず高校の近くで一人暮らしをしているのは、表向きは勉強のためだった。高校に入学した頃から両親は離婚騒ぎでケンカが絶えず、勉強の邪魔になるだろうという理由で、父親がこのマンションを借りたのだ。しかし、両親のケンカのかなり大きな原因は潤だった。

幼い頃から勉強ばかりさせられて、高校はどうにか両親の希望する進学校に入れたものの、入学したとたんにまわりのレベルの高さに追いつけずにやる気をなくし、成績は下がる一方、家に閉じこもって勉強漬けの生活のおかげでクラスメートとロクなコミュニケーションもとれず、ふだんはおとなしいが、ひとたびキレると手がつけられなくなるという性格のために、友だちができないどころか、むしろ積極的に敬遠され、逃げられるという始末だった。失敗の原因には父親の偏った考えもあった。父親はあれだけ勉強に熱心だったわりには潤を進学塾にやらず、家庭教師もつけず、あくまでも自分だけの監視下で教育しようとこだわったのだ。父親にも人間不信と過剰な自信があった。しかし、社会から孤立した偏った理想論で息子を育て上げようとした父親は、自分の間違いをいっさい認めようとしなかった。

結局、勉強もダメ、人間性もダメという結果に、エリートを自負する父親は苛立ち、高校生にもなる息子に今だに手をあげていた。潤のほうは、子どもの頃から父親に叱られながら勉強していた流れを引きずっていて、殴られることに恨みや怒りはあったものの特に疑問は感じず、いい年をして子ども時代同様、いつも泣きながら素直にあやまっていた。父親には反発や説得よりも泣き落しがいちばん効果 があると知っていたし、泣いた後にはたいてい優しい言葉のひとつもかけてもらえるからだった。母親は息子の成長のなさを危惧して父親にも潤を大人として接するように勧めたが、父親は頑として聞かず、結局それがまたケンカに発展してしまう。両親がケンカの中で自分の欠点をあげつらね、責任を押し付けあう様子にうんざりしていた潤は、「静かに勉強できるように」という口実でじつは厄介払いをされたということは感じていたが、とにかく連日の針のムシロのような生活から解放されたい一心で、家を出る話に同意した。

 

 

「あれ、潤ちゃん、学校の帰り?」
紺の詰襟の制服を着たまま置きっぱなしだったリュックを取りに「ブラディシープ」に寄った潤に、まだ開店前でグラス類を磨いていたユキが声をかけた。
「制服じゃあ飲ませられないな。荷物、棚の一番下にあるよ」
「ありがと。すぐ帰るから心配しないで」
「メシ食ってかない?いま、ツマミ仕込んだところだから、まだあったかいよ」
「いいの?」
「潤ちゃんいるとお客さん盛り上がるから、たまにはおごるよ」
「つか、俺いつもおごりだよ」
「それは誰かしら払ってくれてるしさ、潤ちゃん、いるだけであんまり飲み食いしないじゃん」
「こないだは誰払った?」
「ああ、松崎さんが余計に払ってった。残りはナベちゃんにもらってるよ」
「なんだか悪いな。俺もたまには払わなきゃ。もうすぐ夏休みだから、何かバイトしようかな。皿洗いにでも使ってくれない?」
「さすがにうちでは高校生は使えないよ。気にすることないじゃん、松崎さんだってナベちゃんだって、潤ちゃんかまって楽しんでるんだから。そういえば金さんと江上さんがこないだ来て、潤ちゃんに会いたがってたよ」
「金さんて白塗りして踊ってる人?俺、変なおじさんにばっかりモテモテだな」
「若いコはうちでは珍しいからね。シゲオさんだって、もう30だよ」
「へえ、あの人は年わかんないね」

まだあたたかいキンピラゴボウと唐揚げ、マカロニサラダをひと皿に盛ったものを、潤はカウンター越しにユキから受け取った。店に来る客のほとんどは飲むことだけが目的なので、料理は事前に作り注文のあった時に温め直せる簡単なものばかりだった。それでも、コンビニの買い食いばかりの潤にとっては、久しぶりのごちそうだった。
「いただきます」
胸の前で両手を合わせて食べはじめた潤に、ユキが言った。
「潤ちゃんてミョーにお行儀がいいよね。そういうところがおじさん連中にウケるんじゃない?」
「そうかな。でも、おじさんよりお姉さんにウケたほうが嬉しいな」

タイミング良く店のドアが開き、見慣れない女性が入ってきた。この店の客にはいないタイプの、シルバーグレイの品の良いスーツに清潔そうなストレートのロングヘアの20代中盤の女性だった。
「あれえ、珍しい、朝美さんじゃないですか」
「お久しぶり。シゲオと待ち合わせてるんだけど、まだ早かったかしら。出先から直帰できたから、仕事終わるのが早かったのよ」
「いや、もう開店の時間だからかまいませんよ。何飲みます?」
「そうね、じゃあズブロッカをいただこうかしら」

急に紳士的になったユキの態度と、気取った雰囲気の朝美が、常連のおじさん達の好む、ウォッカに香草を漬け込み冷凍庫で冷やしたズブロッカを注文したのがおかしくなり、潤がクスッと笑うと、朝美はこちらを見て言った。
「もしかして潤ちゃん?」
「えっ?何で知ってるの?」
「シゲオに聞いたのよ。ここで変なコに会ったって」
「変なコじゃないよ。お姉さんってシゲオさんの彼女?」
「そうよ。何人いるんだかわからないけど、私が本命の彼女です」
「…そうですか」
「根拠があるもの。私は彼にはもったいないくらい。ところで、シゲオがずいぶんあなたのこと話してたから、どんなに可愛いコかと思ったら、意外とフツーなのね」
「男は、中味で勝負」
「なんだかヒョロヒョロしてて、可愛くないこともないけど神経質でとっつきにくいかんじね。中味はどうなのかしら。どのみち中味で勝負できるほどの年でもないわね。ストーンズが好きなんだって?私はああいうダサいのはダメ。ボサノバとかスタンダードジャズがいいわ。それに…」
「ねえ、何でいきなりつっかかるの?俺、何か悪いことした?」
「あなたのせいでシゲオとケンカしたのよ。そもそもの原因は違うけど。シゲオが私のお金で、変なAV女優に貢いでたの。ああ、思い出すだけで頭に来るわ。それで腹立ちまぎれに今度は男の子にまで手を出すのかホモ野郎って言ったら、あいつ、ぶったのよ、私を」

「ホモ野郎」に力をこめて言い、ズブロッカを一気にあおいだ朝美を、ユキと潤はあっけにとられて眺めていた。
「同じの、もう一杯くださる?」
ユキが恐る恐る差し出した2杯目のズブロッカを手に、朝美はふたたび気炎を吐きはじめた。
「信じられない。親にもぶたれたことないのに。浮気だけならまだしも、私が渡した生活費で女にアクセサリーなんか買ってたのよ。私にはストッキング一枚買ってくれたこともないくせに」
「ねえ、お姉さん、話しながらどんどん怒ってるみたい。ね、これ食べる?おいしいよ」
キンピラゴボウが少し残っている皿を彼女のほうに寄せると、朝美は潤を睨んで言った。
「シゲオの膝枕でよだれたらして眠ったんですって?あのズボン、私が洗濯しておいたわ。あなたが寝てる間に、シゲオは何考えてたと思う?」
「わかりません」
「勃起してたんですって。あなたにフェラチオさせてるところを想像して」

 



 

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