「ニーチェって脳梅毒だったんだってね」
「ああ、神は死んだって言った人ね。つかさ、神が死んでからはじまったのがこの世界なんじゃないの?」
「いや、これから死ぬんでない?ラグナロック神話によると」
「ラグナロックか。そういえば、こないだは参ったよ。江上さんに、ドンギマリでワグナーの神々の黄昏、全部聴かされてよ」
「江上さん?あの人、インテリはいいけど、ワグナーきちがいだけはどうにかしてほしいね」
「東大卒なんだってな。学生運動に入れ込みすぎて、いまはしがない電器屋のおやじ」
「たしか、潤の親父さんもインテリだろ。大学教授だってよ」
「へえー、このクソガキの親父が?」
「おい、寝ちゃってるよ。いい気なもんだな」
「起きてるよ。次、愚か者の涙。黙って聴かせてよ」
うるさそうに細く目を開けて言い、また壁のほうを向いて黙り込んだ潤の頭を、シゲオはひっぱって自分の膝に乗せた。
「ハイ、じゃあここで聴きな。俺も好きだぜ、愚か者の涙。一緒に聴こう」

フェイザーをかけたエレクトリックピアノの、雨に濡れたようなやさしいイントロがはじまった。窓に落ちて流れる雨だれのような生ピアノと、郷愁をかきたてるストリングスの旋律が同時にはじまり、センチメンタルなバラードに不似合いなミック・ジャガーの愚痴っぽいヴォーカルの後、むさくるしいメンバーたちが無理矢理出した裏声のコーラスが物悲しく響いた。

…ダディ、泣くなんて馬鹿だよ。Uh、ダディ、泣くなんて馬鹿だ……。

潤の後頭部に密着したシゲオの下腹部から、コーラスに合わせて口ずさんでいる、太くかすれた、くぐもった声が聞こえてきた。何気なく頭に置かれた大きな手がとっているリズムが心地いい。ダディ、泣くなんて馬鹿だ。この曲は潤のいちばんのお気に入りだった。本来は女遊びのすぎるいい年をした男の泣き言の歌だが、潤はいつも、繰りかえされるコーラスの部分だけを勝手に解釈して聴いていた。…だよな、泣くなんて馬鹿だ。泣いたって笑ったって時間は過ぎてくんだから、何も考えないでラクにしてりゃいいんだ。

静かに、単調に続く音の中で、ミック・ジャガーの声がヤケになりはじめた。
「俺たちは馬鹿だよ、なあ?どうせ馬鹿なんだから、テキトーに好きなことやってりゃいいんだ」
曲に同調して言ったシゲオのセリフが自分の考えていたことをそのまま代弁しているかのようだったので、潤は小さく吹き出した。それに気づいたのか、シゲオはリズムをとっていた手を止めると、潤の頭をなではじめた。気持ちいい。大きくて重たい手。懐かしいな…。

 

 

「うわ、潤、よだれ、よだれ」
ノブの大声に目を覚ますと、店内の客は自分たちだけになっており、BGMも静かなジャズに変わっていた。体を起こすと、シゲオのズボンの太ももにできた小さなシミが目に入った。
「あーあ、ガキはしょうがねえな。シゲオさん、かんべんしてやって」
ノブが差し出したポケットティッシュを受け取ると、シゲオは笑いながらズボンのシミを拭き取った。その様子を無反応で見つめる潤に、ノブはあきれた顔で言った。
「だめだ、まだ寝ボケてるよ。おい、帰るよ。潤ちゃん、おっきして」
「ねむい」
「だからまっすぐ帰りゃよかったんだよ。しかし都合がいい。終電なくなったから、おまえんとこに泊めて」
「なんだよ、潤ちゃん、近所なの?」
シゲオがたずねると、ようやく頭がはっきりしてきた潤は目をこすりながら答えた。
「駒場」
「駒場か、2駅ならラクショーで歩けるな」
「シゲオさんはどうするの?」
ノブがタバコとライターをドラムスティックのささったショルダーバッグに投げ込みながら聞くと、シゲオは得意げな笑顔をつくった。
「女に迎えにこさせるさ。そうだ、潤ちゃん寝ちゃったから、まだガンジャ1本分遊ばせてもらってないよ。あとの楽しみにしておくから、携帯教えて」

潤は、ジーンズの後ろポケットから取り出した携帯電話に自分の番号を表示させると、シゲオに渡した。
「サンキュー、俺のは」
「いいです。たぶんかけないから」
「なんだよ、冷たいやつだな」
「そうじゃなくて、かけるの苦手なの。忙しいかなとか、迷惑じゃないかとか気になるから。俺のほうはいつでもいいよ」
「おまえさ、そういう時でも、いちおう聞いておくのが礼儀ってもんだろう」
ノブがたしなめると、潤は言った。
「だって、番号知っててかけないほうが失礼じゃん。それに、かけなきゃってプレッシャーで疲れちゃうよ」
「若いのにずいぶんたそがれたやつだな。そんなんじゃ友だちいねえだろ?」
番号を控えたシゲオが携帯電話を返しながら言うと、潤はアドレス帳を表示させて見せた。そこには屋上のメンバーと数人の知り合いの番号しかなかった。
「俺は友だちいらないの。うざいやつばっかだから」
「負け惜しみ。いらないんじゃなくて、できないんだろ?怪しいおっさんとばかり遊んでると、マトモな大人になれねえぞ。じゃ、シゲオさん」
シゲオにあいさつをしたノブは、潤をうながして店を出た。

 

 

初夏の、湿気を含んだ空気に、踏み切りの信号がやわらかく浮かんでいた。エフェクター類の入った重いリュックは店にあずけてきたので、少し身軽になった潤は機嫌よくノブに話しかけた。
「シゲオさん、いい人だね」
「世間から見たらダメな人だけどな」
「なんだよ、妬いてんの?」
「馬鹿。おまえが警戒心なさすぎるから注意してやってんの。いいか、子どもは子どもらしく、友だちと遊んだり勉強することも大切だぞ。今からこんな世界にどっぷりはまってると、おまえもいつかダメになる」
「説教かよ。うぜえな」
「俺らはまだいいよ。大人のシャレの部分もあるんだから。おまえのは現実逃避そのものだろう。友だちができない、勉強が嫌だ、家に帰りたくない。だからって、ジャンキーやっててどうするんだよ」
「ぜんぜん違うよ。俺が現実から逃げてるんじゃなくて、現実が俺から逃げてるの。俺につっこまれるのが恐いからさ。それに、ノブさんだってジャンキーじゃん。そんなやつの言うことなんて聞けないね」
「…どうしようもねえな。とにかく、ちょっとは自分のことも考えろってことだよ。俺な、おまえと同い年の弟がいるから、心配なんだよ、おまえがあんまりにもズレててさ」
「手つないで行こう」
「ハ?俺の話、聞いてんのか?」
「聞いてるよ、心配してくれてるんだろ?だから手つないで行こう」

ため息をついたノブは、仕方なく潤の手をつないでやった。ノブは、仲間内では若いほうだったが、それでも潤より8才も年上だった。ライブハウスで知り合った時は、潤のことを生意気そうな少年だとしか思わなかったが、何度か同じステージで演奏するうちに、年の割にはテクニックもあり独特の個性のあるギターと、バンド内の同年代のメンバーから浮いてしまっているぎこちないコミュニケーションの取り方に興味をもって、「ヘヴン」のライブにさそってみたのだ。

「ヘヴン」は、アンダーグラウンドでは有名な玄人受けするR&Bバンドで、自分たちのスタイルを固持するために表舞台には出てこなかったが、メジャーなミュージシャンや業界人のファンも多く、音楽関係だけでなく、演劇や映画関係者、作家、事業家など、細かく分かれた枝葉で人脈がつながっていた。「ヘブン」のメンバーの中にはその人脈を利用してメジャーデビューをはたそうという考えの者もいたが、シゲオは常に超然とマイペースで、誰に媚びることもなく自分のスタイルを通 していた。シゲオの作る曲は、ラフでアクのあるオーソドックスなブルースそのものの世界だったが、ヒットチャートにしか関心のない人々にとっては、泥臭すぎて敬遠するようなものでもあった。

ノブは、潤の世代では「ヘヴン」は理解できないだろうと思いつつも、自分の傾倒する世界を見せて反応を確かめたいという気持ちもあったのだが、横で目を輝かせてリズムをとっている潤に愛着を感じて、「屋上」のメンバーに紹介したのだ。

 

 



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