The Story of Ziad Samir Jarrah

ジアド・ジャラヒ(26)

米同時多発テロでペンシルバニアに墜落したユナイテッド93便を操縦していたジアド・サミール・ジャラヒは、1975年5月11日、レバノンのベカー渓谷から30マイル東のアルマルジ村で生まれた。父サミールは公務員で、母ナシサは学校教師だった。一人息子のジアドを両親は手塩にかけて育て、彼をベイルートのカトリック系の学校に入れた。しかし、他の若者の例に漏れず、彼は金曜日の礼拝にはごくまれにしか参加せず、政治にも無関心で、20才になった1995年に卒業した。


ベカー渓谷

ジアドと彼のいとこサリムは1996年4月、ドイツのグライフスバルト大学へ留学した。外国で勉強することは多くの学生の夢であり、彼らは半年間一緒に寮生活を送ってドイツ語コースで学び、その後正式な学生としてドイツで学ぶ資格を得た。またこの年、ジアドはアイゼル・セングンというトルコ人女性と出会い、交際するようになった。魅力的で自由主義的な彼女は、現在26才でボーフム大学医学部の3回生である。

1997年、ジアドは航空工学や航空機の設計、デザインを学ぶため、ハンブルグ応用科学大学に入学した。在学中の2年間、彼の成績は中の上で、航空工学をライフワークにしようとしているようだった。担当のディートリッヒ教授は、彼はにこやかで他の学生ともうまくやっていたと記憶している。

グライフスバルト大学
ジアド(右)とサリム
アイゼル・セングン

1997年の半ば、ジアドはローズマリー・キャネルが所有する家の賃貸人になった。画家でもあったキャネルは、彼のいとこがグライフスバルト大学経済学部に在籍しているので、安心して家を貸した。そして、すぐにジアドに好意を持って、彼の肖像画を描いた。黒い鬚をはやした自分の肖像画をジアドは気に入り、母親へのクリスマスプレゼントとしてレバノンの自宅に持ち帰った。

ローズマリー・キャネル
ジアドの肖像画

1999年9月、ジャラヒは大学の新学期にたった一度授業を受けただけで姿を消した。キャネルによると、彼はハンブルグの近くで友人たちと過ごしていた。ハンブルグには、偶然、アメリカで同時多発テロに巻き込まれた学生が通 う工科大学があった。テロのリーダーで、貿易センタービル北塔に突っ込んだ飛行機を操縦していたとみられるエジプト国籍のムハマド・アタも、工科大学で都市計画を学んでいた。

ハンブルグには、アタのいとこでルームメイトのマルワン・アルシェヒもいた。アタとアルシェヒはテロ攻撃を指揮するために、その年にフロリダへ渡った。アルシェヒは175便で客室を制圧する役割をしていたとみられており、他の者がコクピットに押し入り、貿易センタービルの南塔に突入した。

ムハマド・アタ(33)
マルワン・アルシェヒ(23)
ハンブルグの2人のアパート

1999年のはじめ、ローズマリー・キャネルの引っ越しのためジアドも家を引き払ったが、彼はその後もしばしば自分のオフィスとしてその住所を使った。キャネルは、1999年の夏のほとんどをジアドが恋人のアイゼルとともにボーフム市で過ごしたと信じている。ジアドがパイロット免許を取るためにFAAに登録した住所は、キャネルの家のものだった。

彼は単発機のライセンスを取り、飛行訓練を受けるためにアメリカへ行った。学生ビザが発行されたのは2000年5月21日だった。 8月、レバノンのジアドの家族を訪問したアイゼルは、彼はアメリカにいて、結婚するための勉強で忙しいと告げた。11月、ジアドはベニスビーチにあるフロリダ飛行訓練センターに入学した。ジアドと共に飛行訓練を受けたトルスタン・ビアマンは回想する。「彼はまったく攻撃的なタイプではなかったが、飛行中には人が変わった。彼は他の人間の意見が我慢ならないようで、彼の操縦は安全とは思えなかった。私は、2度とジアドと一緒には飛行しないと心に決めた」。

ジアドが最後にレバノンに戻ったのは2001年2月、父親の心臓手術の時だった。彼は13日にアメリカへ戻り、4月23日にハリウッドのハーディング1816にアパートを借りた。6月22日、彼はおなじフロリダ州のローダーデール海岸沿いのボーガンヴィラ4641のアパートに移り、そこでのルームメイトはハイジャック容疑者のアーメッド・アルハズナウィだった。

アーメッド・アルハズナウィ(23)

「ジアドは身長5フィート11インチ、体重約175ポンドの、力強く男らしい青年だった」と、彼が通 っていたダニアビーチのスポーツクラブ「1USフィットネス」のオーナーで、マーシャルアーツのインストラクターであるバート・ロドリゲスは語る。ジアドはロドリゲスから格闘技を習ったが、中でも制圧術、とくに他者を制圧する方法を習いたがった。彼は大変つつましやかで物静かで控えめで、ロドリゲスはジアドを好意的に思っていた。ジアドの会員証は2ケ月の短期のものだったが、ロドリゲスはこれを「最終的にはドイツに戻るつもりだったためだ」と考えている。近所の住人はジアドを「格好よく装い、赤いエクリプス1990年型を運転するきらびやかな若者」と表現した。

8月27日、ジアドはメリーランドのピンデルモーテルで伝票にサインしている。ペンタゴンを攻撃した77便に乗っていたナワフ・アルハズミは、9月1日、同モーテルに一晩滞在して宿泊費を現金で支払った。バレンシアから約1マイルのピンデルモーテルには、少なくともあと二人のハイジャッカーが8月23日から30日の間滞在した。

ハーディング1816
ボーガンヴィラ4146
ピンデルモーテル

9月4日、ジアドの家族は月々の仕送り2000ドルとは別 に、700ドルを彼に送った。彼の伯父ジャマル・ジャラヒによれば、彼はそれまで家族に「楽しくやっている」とだけ話していた。そして9月5日、ジアドは家族に最後の電話をし、4日に送られた金を受け取ったことを告げた。両親は、電話口のジアドは大変明るく普段と変わらない様子で、「9月22日の親族の結婚式で会えるだろう」と話したという。


2000年のジアド

9月11日、ジアドはニューアーク発サンフランシスコ行きのUA93便に乗り込んだ。離陸のすぐ後に、ハイジャッカーたちはおそらくワシントンDCに向けて飛行機の進路を変えさせた。ジアドはハイジャック機を操縦していたと見られている。怯えた旅行者のひとりが機内からかけた携帯電話の会話によって、ハイジャッカーのグループによって飛行機が乗っ取られたことが明らかになった。数人の乗客たちがハイジャッカーを押さえ込もうとしたが、短時間の飛行後、飛行機はペンシルバニアの林野に墜落した。

 

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