第4章 チューリップの夜会

 

「インポ野郎!」
携帯電話型受信機のスイッチを入れたとたん、突然の罵声が快適なオフィスに響き渡り、私は手から最近入手したハバナ産のシガーを落としかけた。イギリス製の上質なウーステッド地にもう少しで穴が開くところだったのには心胆を冷やしたが、今や興味の対象は耳元で響く金切り声である。 盗聴機を通した声はフィルターを掛けられたかのように変質しており、いつものハリールのそれとは随分と違っているが、ヒステリックにわめき立てているアルトこそは彼女のものでなくてはなるまい。

「いきなり何だよ?」
今度は、20歳前後の若い男らしい高めの声が聞こえてきた。
「Aカップ野郎」
青年の微笑ましい逆襲に私は噴出し、首を振りながら黒いセーム皮を張った椅子に深く体を沈めた。Aカップ野郎とはね、ハリール君、これは一本取られたな。・・・しかし、プライドを傷つけられた彼女はさぞや激昂することだろう。ただちに予想通 りの反応が起こり、スピーカーがビリビリと震動し始めた。

「ジェラールのバカッ!あんたなんて大嫌いよ!」
おやおや。彼女のケンカ相手は、噂のメッセンジャーボーイ、ジェラールだったのか・・・
「おまえから言い出したんじゃないか。ケンカはやめようよ」
「いや!もう出てって!出てかないと警備を呼ぶわよ!」
どうやら怒りの頂点にあるハリールは、青年を部屋から追い出したらしい。ドアが乱暴に閉まる音が聞こえた。

「FUCK YOU!」から始まる英語の罵詈雑言の後、机の上の器物を床に投げつける動作が始まったようなので、私は苦笑し、彼女の狼藉が業務に支障のない物損内で納まることを祈りつつ受信機のスウィッチをオフにした。

私の名は、ベルナール・ゲインズブル。内外の一流企業が集まるラ・デファンスで、ひときわ目立つ一面 ガラス張りの巨大な自社ビルの最上階に私の場所がある。私は昨年役員に昇格し、栄光ある緋色の名簿に名前を連ねることが出来たのだ。緋はローマ教会の枢機卿のマントの色である。キリスト教の最高の地位 、法王へ上り詰める最終段階としての枢機卿の地位は、現在の私の境遇にも似ている。大会社の役員は常人には想像し難い重圧を背負うのであるが、その見返りは非常に豪奢なもので、莫大な年収と共にクラブハウス、プライベートジェットやヘリコプター、ニースの別 荘などの私的使用権、その他世界各地でVIPとして待遇されるなど、重篤に報われている。

このオフィスもその一つで、飴色の光沢が美しいマホガニー材のデスクに黒いセーム皮張りの椅子、同じ素材の応接セットに虎の皮の敷物と重厚でありながら、ITでは最新鋭のハイテクを完備している。片隅にあるバーにはルイ13世やドンペリニョンからボジョレーヌーボーまでの銘酒や珍酒と、私の趣味で選択したバカラ社製で金縁が格調高いリヴォリのグラスが備えており、訪問客や私自身を愉しませるための日本製の高度な音響システムまで兼備している。まことに贅沢な空間であるが、日々闘いの中に身をおく私にとって、趣味の一つであるクラシック音楽の格調高い調べで精神の蘇生を図りながら、次の作戦に思考を巡らす戦略指令本部なのである。

私は最高司令官として一介の兵卒も含めると数万もの部下を持つ。彼らに私の意志を正確に伝え、確実に実行せしめ、指令のインパルスを効率的にピラミッドの末端まで送るために、主だった直属の部下の能力、特性、個性を漏れなく把握してはいるが、果 たして彼ら個人はどれほどの忠誠を持ち合わせているかまでは、見抜くことは困難だ。他の役員に内通 し私の足元をさらうものがいないとは限らない。弱肉強食は外部の企業との間だけではない。むしろ内患こそ恐るべき敵と言えるだろう。

巨大企業では同党異伐の争いは何ら異常のない日常なのである。中世の騎士物語の舞台となった堅固な城も多くは内紛から崩壊した。それを防ぐ有効な手段は相互監視と密告。しかしこの劇薬を必要上に調剤すると、副作用も大きく私の命取りにもなる恐れがある。だが私はマキャベリを信奉しており、他人の善意などには頼る真似は徹頭徹尾出来ない。そこで私が思いついた方法は、彼らも私も双方にとって気持ちのよい賢明な政策。古来からある優雅で冷徹な策謀。すなわち盗聴である。 もちろん私は部下達のプライベートにまで干渉するつもりはない。終業後の彼らに密偵をつけることなどは、よほどの切迫した事態でも起こらぬ 限りしない。ただ、この新凱旋門の顰にならって近未来建築の粋を集めた青いガラスで無機質な美を構成するビルの内側において、それぞれの部屋の一隅と電話にささやかな盗聴器を─この言い方は私の本位 ではないが─しつらえただけなのである。

彼らは自分の地位に見合うリスクとして甘受すべきなのであるが、知らないで過ごせるのは私の恩寵といってもいいだろう。つまらない彼らの個人的な事件、例えば配偶者とのいさかい、社内恋愛のもつれ、学生時代の友人の借金の申し込みなどは、録音テープも含めて瞬殺している。 さしずめ、今回のハリールのヒステリーなどは、私の放置コードに含まれるのであるから深くは追求しないが、子飼いの部下である彼女の感情バイオリズムを把握しておくのは無益ではない。

 

 

「Aカップ」と「インポ」。このやり取りから察するに、二人は行為して完遂しえなかったというところだろうか。それにしてもあのプライドの高いハリールがメッセンジャーボーイと・・・ 私はジェラールなる青年が社内で人気の高い人物であることは聞き及んでいる。マリーは彼の名をあげて殊更に誉めそやしていた。あれは確か音楽のことだった。そう、スタインウェイで「月の光」を見事に弾きこなす心の繊細な美青年だと。クレマンも何か言っていたような・・・妙に色っぽくて抱きたくなるとか。彼の趣味はストレートであったはずなのだが・・・婦女子の間でのみ人気があり、男の側でこんな評判を取る若者というものはどうにもならぬ 代物であることが多いのだが・・・

「面白い」
私はシガーの甘い香りを口の中で回しながら味わい、ゆっくりと吐き出した。 部屋に琥珀にも似た香気が漂い、重厚さという要素を最優先にコーディネートした室内に、持ち重りのする茶色い葉巻は全くふさわしいのであるが、私は吸いなれたジタンヌの強い刺激をふと思い出した。 やはり思考する時のタバコはジタンヌに限る、マリーをすぐに今から買いにやらせよう。私は窓一面 を占めるガラスを通して新凱旋門を見た。ガラスの深い青が太陽に相対してすみれ色の光沢を帯びている。音楽通 のインテリだとかいう妙な青年ジェラールをいずれ検分してやろう。

私が秘書室のインターホンを押すと、即座に聞きなれた優しい声色が戻ってくる。 マリー・デュロワ。一応私の婚約者、ということになっている秘書室の責任者である。
「何か御用ですか?」
「マリー、すまないが、ジタンヌを調達してくれないか。それと・・・」
ここでひとまず言葉を切ると、傍らのル・ノーブル社の報告書とフロッピーが目に入った。表紙の下の右上がりのサインはもちろんハリールのものだ。定例の役員会で私が企画を説明するために、彼女が過去のデータから来期の輸入量 を類推して作成したものだ。詳細を聞きたい部分があり、彼女を呼び出すつもりだったのだが、先ほどの騒動のあまりの意外さとおかしさに忘れていたのだ。私としたことが・・・
「ハリール・オッセンに部屋に来るように伝えてくれたまえ」

さぞや彼女は柳眉を吊り上げて紅い唇を噛み締めていたことだろう。さていまはどんな具合であるか、どれほどの修行が出来てることやら、すぐには来ないだろうが・・・私は軽く口を緩めて肩をすくめた。それから10分ほどの間をおいてインターホンのランプが点滅し、応答するとマリーがハリールが来たことを伝えた。
「入りたまえ」
私は故意に重々しく答える。ドアが開いて、ワイン色のタフタ地のスーツを来たハリールが、一礼して白大理石の床にヒールの音を響かせ入ってきた。

「新しいスーツだね、よく似合っているよ」
夜会服にも汎用される光沢と木目を持つ絹で仕立てたスーツは、他の者が着れば場違いでかなり派手に思えただろうが、雲鬢とも言うべき見事な黒髪を持つこの女にはぴったりと似合っていた。
「遅くなりました。少々取り込んでおりましたので」
彼女はいつもの取り澄ました表情を取り戻し冷静にはなっていたが、激情の残滓が地中海を思わせる色彩 と強い光を持つ瞳の中に揺曳していた。

私は再び腹の底からわき上がる笑いを愛想笑いに変換して、彼女に椅子を勧めた。
「君を呼んだのは、例の社の件なのだが、まあ掛けたまえ」
へちま衿のテーラードの胸元から見える竹を象ったネックレスが金色に輝き、白い肌にヘレニズム的な情緒を添えていた。 ハリールは書類を取り出し説明を始めた・・・

防弾ガラスを通した午後の陽光が室内の観葉植物の緑に反射し、ほどよく調節された空調が吹き上げる埃の粒を透かしている。 彼女の語尾の明確な語り口は、強い存在感と共に入社以来変わっていない。とにかく当時から目立つ女だった。意志的なまなざしと誇り高い表情の怜悧さは他に類を見ず、その際立った美貌の特徴となっている。彼女の内面 が傲慢と隣り合わせのプライドに支配されていることを見て取るのは、数多くの女性を観察してきた私には容易だった。私は大きな肩パット入りのスーツを着て率直な表情でこちらを見ていた当時の彼女を思い出した。他の新人を差し置いて私は一番初めに彼女に質問をしたものだった。
「君はどんな本が好きなの?」
「君主論です」
小娘は隣国の都市国家の外交官の著作を臆面もなくあげた。

マキャベリとは権謀術数の卸問屋である。その本には、君主たるものは愛されるよりも畏れられる方がよい、運命の女神は女であるから叩いて従わせねばならない、果 敢にふるまうものは運命を制する、などの箴言が散りばめられている。中原に旗を立てんとするものにとっては必読の書である。もちろん私も愛読書として、自宅の書斎の、18世紀の貴族の館から買い取った本棚に鎮座させてある。彼女は私と同じ資質の人間だ・・・野心に満ちて謀略も辞さないが、貪欲さや下賎を嫌い高貴さや優雅さを愛するという・・・言うなれば帝王の資質。心の中に王冠を持って生れ落ちた人間なのだ。

しかし鋭い刃物の煌きをむやみに振り回し、怜悧さを誇示することは己の損失でもあるのだよ、賎民どもはとにかく嫉妬深い。マキャベリは彼らの憎しみを買わないようにという忠言も呈しているよ。私は自分がであった闘争や経験からこの大胆不敵な若い女に忠告してやりたくなったが、彼女が賢明さを持ち合わせるならいずれ学習するだろうと、無言の笑みで報いたのだった。

「ゲインズブルさん、どうなさったのですか?」
私は過去の記憶から現実の問題に引き戻され、再び複雑な数字と企画の世界に没頭した。 ル・ノーブル社はわが社の有力な取引先の一つであるが、それだけではない。武器輸出に関する重大な裏の仕事も請け負っているのだ。アメリカのグローバル企業との綱引きが水面 下では行われている。イスラム圏への輸出はフランス企業のシェアが多くを占めているが、米政府の黙認の元で行われている。世界第一の武器輸出国であるアメリカは、小国のGNPほどの規模を持つ数社の企業が政府の金主であるといってもいい。米政府の政策は企業の意志でもある。彼らが本気で我々の市場に参入して来たら厄介な事態になる。我々にも政府からの庇護は与えられているので、誰が最大限の恩寵を引き出せるかが、サバイバルのカギであると言えるだろう。

「来週クリヨンで毎年恒例の各国の文化交流のパーティがあるが、そこに米駐在大使が一時帰国中なので、招待しておいたのだ」
現在の駐米大使ド・ラ・ロシュフコー氏とは、前任大使の退官祝賀会で挨拶を交わしたことがある。ロシュフコー氏の渡米時期も迫っており、それ以外に交渉を持つ機会はなかったのだが、彼は将来の大統領選出馬を視野に入れているはずなので、財界とのコネクトは不可欠である。国内最大手の貿易商社であるわが社は魅力ある存在として彼の気高い目には映っているはずだ。互いの利益のための暗黙の共闘という政治的な策略がここにある。先行投資として私は今のうちに彼への太いパイプを作り上げるつもりだ。彼が大統領に選出された暁には、私の権力も彼の庇護の元に大きく広がるはずなのだ。

まず第一歩としてわが社が主なスポンサーとなっているパーティの招待状を彼に出しておいた。先日、マルセイユの名家ド・ラ・ロシュフコー家の一角獣とライオンの紋章入りの封筒で返事が届いた。もちろん答えは諾である。
「それで君も私と共に出席してもらいたいのだ。夫人同伴とあるが、ご存知の通 り私は一人身なんでね」
「それならマリーの方が適当ではないでしょうか?」
ハリールは隣の秘書室へ通じる扉へ視線をやった。
「もちろん彼女にも席は設けてあるがね。ロシュフコー氏はこれからのわが社に欠かせない人物なので、私の腹心をも知っていただく方がよいと思って、私のパートナーは君にしたのだよ。マリーはバンサンにエスコートさせよう。それとも君はバンサンと一緒に来る方がよかったかな?ならそうしようか?」

VIPの集まるパーティへの出席は、華美なことの好きなこの女を有頂天にさせるかと思えば、予想に反して顔を曇らせた。
「何か不満なのかね?」
「バンサンとなら遠慮しておきます」
彼女は、バンサンの名を汚らわしそうに吐き出した。
「どうしたね?君たちは仲良しじゃなかったのか?ケンカでもしたのかね?」
「いえ、それは違いますが・・・」

エメラルド色の瞳が鋭い光を帯びているのは、否定と嫌悪の感情が彼女の中にあることを示している。単なる仲間割れではなさそうだ・・・勤務時間外の個人的な揉め事には関知しない主義ではあるが、デリケートな策謀においては小さなヒビとなり、計画が画餅と帰すだけならばまだしも最終的に大崩壊を引き起こす破滅への序曲になりうることがあるのだ。これは早々に同期の二人の間の何かを見つけ出して私なりの断を下さねばなるまい。
「ともかく当日は華やかに装ってきてくれまたえよ。君はどこにいても花形なのだからね」
私の言葉に、彼女は今まで引き締められていた眉を開き、ただちに喜色を浮かべた。
「いえ、私など恥ずかしい限りですわ」
プライド高くマキャベリズムにかぶれた痛いところのある女だが、操縦は案外簡単でもある。彼女の頭の中は一瞬で、どのドレスを着用するか、それを着た自分の姿の想像で占められ、バンサンのことなどは消えたらしい。 しかし、バンサンとどんな会話をすることやら・・・私は意気揚々と背筋を伸ばしたハリールの後姿を見送りながら思った。

 

 

バンサン・ウジェンヌは盲点だった。彼の順良さと常識性は優柔不断と裏表をなしている。彼の温和さの根源は自己保身と小心であるので、以前から悪辣なほどの肉厚な策謀に参画させるのは不適格と判断していた。故に彼の部屋の盗聴器を作動させたのは、数えるほどだったのである。

国内最大手の貿易会社の取締役として私はもちろん多忙である。部下全員を四六時中盗聴している訳ではない。警察捜査かゴシップ誌のような執念深いやり方は、優雅を身上とする私は好まない。無計画な徒労は君主の政治哲学にはない。何事も的を絞って効果 的に行うのが、CEOの座を狙う私の方法なのだ。選抜した部下に枢機に関連する事柄を委任した場合のみ、伝家の宝刀を使うのである。

たった今、私はマリーをしてバンサンにハリールのオフィスへ向かうよう指令を出した。後は受信機のスイッチを入れて会話を待つだけである。お粗末だったハリールの自己抑制の術は、勤続年数と共に進歩したので即核心に触れる会話は行われないかも知れないが、断片や雰囲気から何らかの手がかりはつかめるであろう。精巧な細工が施された金のシガレットケースからジタンヌを取り出し、ライターをこすった。デュポンの漆塗りのそれは、いつもながらの心地よい音を立てて点火した。二本目のタバコが紫煙を上げた時、バンサンの訪問をハリールに告げる彼女の秘書の声がスピーカーから聞こえてきた。

「聞いてくれ、ハリール」
しばし事務的な内容の会話が続いた後、ハリールの打って変わったよそよそしさに対して、バンサンから話し始めた。私は受信機に耳をあてがった。 押さえた声には湿った焦燥感があった。
「彼が君に何を言ったか知らないけど、どうも頭がおかしいんだ」
ハリールは冷たい声で切り捨てた。
「私は忙しいの。そんな話聞く暇はないわ」
「いや、大事なことなんだよ。僕を見てくれ、ひどい怪我だろう?これは彼の仕業なんだぜ」

バンサンは構わず続ける。
「ジェラールは本当に下劣な奴だよ」
ジェラール!またこの名だ。先刻ハリールと身体的欠陥・・・いやこれは言いすぎかもしれない・・・Aカップだのインポテンツだのと低俗な言い争いをしていた青年の名前が、バンサンの口から飛び出すとは・・・ 私がますます身を乗り出して耳をすますと、ハリールの苛立った声が応酬する。

「彼だって大怪我をしてたのよ。あなたが先に、それもさんざん殴りつけたんじゃないの」
「それは嘘だ。彼から暴力を振るってきたんだ。だから応戦した。そうしたら自転車で襲い掛かってきたんだ。ぼくは殺されるかと思ったよ。君は騙されているんだ」
しばしの沈黙。
「どちらが先に殴ったとしても」
ハリールは一旦口ごもったようだが、続けた。
「あなたたちの・・・気持ち悪い痴情沙汰なんかに私を巻き込まないでよ」

痴情・・・!今ハリールは痴情沙汰と言った!
「そんなことを彼は君に言ったのか・・・」
焦りのあまりバンサンの声はかすれている。
「そうよ!全部聞いたわ。いやらしい。あなたたちはヘンタイよ!」
「ハリール、落ち着いてくれ」
バンサンは自分に言い聞かせるように言った。
「彼は確かに僕を誘惑した。それは事実だ。しかし僕は悪魔の誘いを退けたんだ」
「嘘だわ。彼はあなたと関係があるって言ってたわ。初めから狙っていたくせに」
「つまらない子供の話と僕と世間がどっちを信用すると思う?」
「私はジェラールを信用するわよ。彼は嘘を言うような子じゃないわ」

厳しい口調で決め付けたハリール。これにバンサンはどのように反論するのか、私の心は躍る。
「じゃあ僕が嘘つきだと言うのか」
バンサンは一瞬気色ばんだようだ。
「僕は正直者で常識家です、とでも言いたいの?!」
ハリールも一歩たりとも引く気はない。
「とにかく落ち着こう、ハリール。事実の証明をしようがないことだから・・・」
バンサンはハリールの確信的な態度に自分の不利を悟ったらしい。 しばらく無言が続いたが、ようやく核心に触れる気になったのか、「こうなったら正直に聞かせてくれ」と、散々に逡巡した後決意したような声が聞こえた。

「何なの?」
「君はジェラールと寝たのか?」
嫉妬に狂う男はなりふり構わぬというが、これは見苦しい。私は、彼女のジェラールへの不満は、未遂の情事への苛立ちに起因すると踏んでいる。
「何のつもりでそんなことを聞くの?」
「僕は君のことを心配してるんだ。彼は人の心を弄んで楽しむ悪魔なんだ。彼とは手を切るほうがいい」
「ご心配ありがとう。でも大きなお世話。あんな子供、何もできやしないわよ」
「ということは、彼とはセックスしなかったのか?」
バンサンの声はかすかな喜色を帯びているのが、スピーカーを通して感じ取れた。
「・・・してないわよ!もうんざりだわ。二度とこの話はしないでちょうだい。あなたにもジェラールにも金輪際関わりたくない」

その後バンサンは去り、ハリールも外へ頭を冷やしに行ったらしくオフィスは無人となり、スピーカーが拾うのは、エアコンディショナーのかすかな振動音のみになったので、私はスイッチを切った。灰皿を見ると吸いかけていたジタンヌが、形を保ったまま白い灰になって燃え尽きていた。 私はセーム皮を張り詰めた背もたれの弾力に身を沈め、新たなジタンヌを深々と吸い込んだ。口中に広がっていくわずかに辛みのある異国の香りが、緊張を解きほぐしていく。

思わぬ収穫だった。部下の義務として全員にほどこす身辺調査の中で傾向として記述されていたが、バンサンを男色家として確認できた。無論個人の嗜好の問題であるので非難するつもりはないが。そして何よりも『ジェラール』という存在。いつからかハリールとバンサンの間にはこの青年を巡って暗闘が継続していたらしい。両者とも口々に己の潔白を言い張っていたが、ジェラールに魂を抜かれた跡は隠せない。やはりその悪魔とやらを実見せねばなるまい、と、この興味深いエピソードに結論を出し、煙をゆっくりと吐き出す。それは青い窓ガラスがプリズム代わりとなって七色に分かれた光線の中に、崩れながら溶けていった。



 

 

BACK     HOME     NEXT