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 「あなた今日はお休みなの?」彼はいつものメッセンジャーの青い制服ではなく、黒と白のボーダーシャツに黒いジーンズをはいて、黒いライダーズジャケットを手に持っている。
 「そうなんだ。俺、今日は休み。先週の祝日、急な呼び出しで出勤したから」
 長めにカットされた前髪をかきあげながら彼はうなづいた。
 「休みの日までバイト先に行くのは気が進まなかったんだけど、おまえに見せたいものがあるから来たんだよ」
 「見せたいものって何?」
 しかし彼は答えず適度な丸みのある唇に笑みを浮かべている。
 「あててごらんよ」
 「そんなの解るわけないでしょ」
 「あ〜あ、鈍いなあー。ハリールもやっぱりトシだな」
  彼はいつものように憎まれ口を聞くと、床においていたリュックを取り上げ、中を探った。「ほら、これ!」
 何か灰色のものが彼の右手の中で動めいている。よく見ると、それは小さなうさぎだった。
 「可愛いだろ?」
 ジェラールは得意げに手の中の子うさぎをこちらへ差し出した。それは幼い頃絵本で見た「ピーターラビット」にそっくりな白とグレーの入り混じった毛色をしている。まだ生まれて一ヶ月ほどしか立っていないらしく、彼の手のひらに乗るほどの大きさしかない。耳もまだ短くうさぎというよりも雉毛と表現される毛並みを持つ子猫を擬したぬ
        いぐるみのようにも見える。しかし作り物でなく命が宿っている証拠にピンクの鼻がピクピクと動き、丸い大きな黒い瞳の表面
        には私と彼とが並んで映っていた。
 生き物をオフィスに持ち込むことは禁止されていたような気もするのだが、私はあまりのかわいらしさについ引き込まれてしまった。「あなたのうさぎ?可愛いわね」
 「だろ?ちゃんとご挨拶もするんだぜ」
 ジェラールは左手の上にちょこんと座った子うさぎの毛並みを整えながら、優しい声を出して人間の子供に向かうかのように話しかけた。
 「さあ、ラビちゃん、このおばちゃんにご挨拶をしようね」
 そしてうさぎを机においてから両方の前足を持ち上げて、お辞儀をさせた。
 「こんにちわ。あたしラビちゃんと言います。よろしくお願いします」
 子うさぎはジェラールのなすがままになって人間のように頭を下げる。ラビちゃんという名前らしいうさぎが頭を下げた時、小さな両耳がペコンと前に垂れたのがほほえましく感じられた。
 「ラビちゃんはダンスもうまいんだよ」彼は再びラビちゃんを後ろ足で立ちあがらせて、小さな両手を彼の歌う鼻歌に合わせたリズムで自在に動かした。それは小学生がキャンプなどでよく踊るフォークダンスの身振りだった。短い手足をせわしなく動かす子うさぎのダンスは、愛らしいがどうにも滑稽でもあり思わず私はふきだしてしまった。しかし無理な体勢を取らされていた子うさぎはさすがに迷惑に感じたのだろう、前足を握って操るジェラールの手から逃れようと身もだえしてささやかな抵抗を始めた。
 「あれ?ラビちゃん、どうしたの?おばちゃんにいいところ見せるんだろ?」ジェラールは子うさぎの小さな顔を覗き込みながら笑う。そこで私はこのたおやかな生き物に挨拶を返すことした。
 「もういいわよ。もう十分。それにおばちゃんはよけいよ」
 私はジェラールを軽く睨んでから、可愛いダンサーの目線に合わせて机の前にしゃがみこみ、「こんにちわ。ラビちゃん。私はハリールという綺麗で優しいおねえちゃまよ。よろしくね」と小さな訪問者に返礼した。この時私は、うさぎの黒い目は見る角度によれば血管が透けて見えるので赤くもあるということを知った。
   ▼   「おねえちゃま、握手」ジェラールはうさぎの右前足を取って私の手の平につける。細かい毛が密生しているうさぎの手に触れたのは初めてだったので、その感触に私は驚いた。
 「靴下はいてるみたいでしょ?」
 ジェラールはいたずらっぽく笑って言う。
 「足音がしないように毛が生えているんだよ」
 彼はそう言いながらうさぎを高く差し上げて自分の顔に近づけキスをした。
 「よかったねー。おねえちゃまはラビちゃんが気に入ったようだよ、でもいい子にしないと、このおねえちゃまはこわいから怒られちゃうんだよ」彼の表情はいまだかつてないほど清らかで、そのキスにはうさぎへの無償の愛情があふれているので、彼の気持ちに反映されて私もつい微笑んでしまった。
 「ラビちゃんは女の子なの?」
 「そうだよ。俺の彼女」
 彼は再びうさぎにキスをしてからこちらを向いてウィンクした。
 「うさぎさんにまで焼いちゃ駄目だよ、おねえちゃま」
  私はムッとしたが、また小僧が本領を発揮して私をからかい始めたのだからと思った。しかし軽く流しつつも否定しておかねば、小僧の言い分を認めることになるのでつんと横を向いて切り返した。「ふん。誰があんたみないた小僧に焼きもちなんぞ焼くものですか」
 しかしジェラールは私には応えず、最愛のラビちゃんを抱きしめてほお擦りしているのだったから私は苦笑するしかなかった。その様子は白い翼を持つ天使が神の子うさぎを胸に抱いて煉獄に降り立ったかのようでもあった。ラビちゃんには誰もかなわないな・・・私の感想だった。
 「ちょっとだけラビちゃんを床に降ろして遊ばせてもいい?」ジェラールは子うさぎを胸に抱きかかえながら私に聞く。
 「いいけど、糞しないか心配なんだけど」
 「大丈夫だよ」
 彼はしゃがんでうさぎを床へ置いてから立ち上がって答えた。解放された子ウサギは自分の自由を確認すると嬉しげに跳ね始め、観葉植物の植木鉢の方向に駆けていく。
 「もしウンチしても俺が掃除するからいいじゃん」
 これを聞いて私は焦った。
 「やっぱり糞するんじゃない!そりゃ生き物だから当然なんだけど・・・ここでは困るわ」
 しかし彼はこの抗議には答えず、長いまつげを上げて瞳を蒼くして言った。
 「ね、うさぎはふざけ屋さんなんだ。だからいつも遊んでいたいんだよ」
 「だからと言ってここで」
 彼は私の言葉が全く耳に入らないかのように続けた。
 「ね。見て。楽しそうにはしゃいでるだろ?うさぎって好奇心が旺盛だから初めてのところを探検してんだよ」
 見ると小さなうさぎはいかにも楽しげにまだ短い耳を振り、スチールの本棚の下部の匂いをかいでは跳ねている。私達は彼女をそのままにして食事をすることにした。
   ▼   「俺、タマゴサンドが好きなの」薄い食パンにはさまれたタマゴのサンドイッチを食べながらジェラールは笑った。いかにも嬉しそうに食べるのは、この青年の特徴だ。やせぎすの体型なのに、案外食欲旺盛なところには、彼と何度か食事をした時、私は密かに舌を巻いていた。何だろう?彼をどのように捉えたらいいのか。やはりとても不思議な子だ。メッセンジャーボーイであるのに人のオフィスに入り込み、当然のことのように食事をしている。それが自然で、どのような場にいたとしても違和感のない雰囲気を持っている。
 いちごブロンドとすみれ色の瞳のせい?私はクロワッサンを千切りながら彼を観察していた。小さな顔はよく整い、瞳の閃きからは他への無関心さが感じ取れるが、教会の壁画の天使のそれにも似た、適度に厚みのあるあどけない唇と蒼い瞳を縁取る長いまつげが愛らしさを添えているのだと結論が出る。なんだかこの子、よく見ると品があるな・・・彼の放漫な態度さえも品の裏打ちがあるように感じられたのだ。 「何を見ているのさ」私の視線に気付いたジェラールは顔を上げていぶかしげに聞いた。
 「俺の食べ方、そんなに変?」
 「ち、違うのよ」
 私は何と説明していいか解らないので、慌てて否定し、思い付いた言葉で取り繕った。
 「あなたは、御両親のどちらに似ているのかな?って思ってたの」
 私は無難な話題を提供したつもりだったのだが、晴天の空ににわかに曇りが掛ったように、暗い影が差した彼を見ることになった。
 「どっちもに似てないよ」
 視線を落とし、吐き捨てるごとく言うジェラールの白い顔は、複雑な陰影を帯びていた。私は後悔した。それからジェラールは黙り込んで視線を落とし、サンドウィッチを静かに食べている。そう言えば、彼にどこから通
        勤しているのかを聞いた時も、違う質問ではぐらかしたように思える。プライベートをあれこれ聞かれるのは嫌いなタイプか、もっと他に何かあるのか・・・
 しかし私の質問で彼が急にふさぎ込んだのは明らかなので、罪悪感に駆られ、話題を変えて雰囲気を元に戻そうとした。「こないだのドライブで私の運転の腕、解ったでしょ?」
 「うん。上手だったね」
 自慢に対しての揶揄が跳ね返ってくるかと期待すれば、気のない肯定なので、私はますます困ったが、この際、率直に心にあることを彼に告げようと考えた。
 「この前のこと、私が悪かったわ。ごめんね」
 すると、彼は食べる手を止めて、顔を上げて私を見た。
 「何について謝ってくれるの?」
 「何って・・・ほら、うさぎや、あなたのこと。無神経に傷付けて悪かったと思っているの」
  私は、彼が具体的に項目を挙げた謝罪を要求しているのかと思ったが、違うようだった。「あ、それね。あの時は随分腹立ってたけど、まあもういいよ」
 恬淡に言うのを聞いて私は安心したが、次の言葉を聞いてまた絶句してしまった。
 「あの晩にそうやって素直になれば、ちゃんと可愛がってあげたのに」
 「可愛がるって・・・!」
 「そう、おまえはあの時、抱かれたがっていた」
 もう呆れて二の句が告げられない状態になってしまった。これだけ言えばこの破廉恥小僧にはこの世に恥ずかしいものはないだろう。それを尻目に、食事を終えたジェラールは、サンドウィッチの包み紙をすばやく丸めて片づけると、「冗談だから怒るなよね」と、声を殺して笑った。
  「冗談でも言っていいことと悪いことがあるんだわよ!」私がこう言いかけた時、 今まで楽しげに跳ねていたラビちゃんの動きが止まり、耳を真っ直ぐに立て後足で床をトントンと叩いた。それから鋭い悲鳴のような鳴き声を上げ、大きく跳ねて方向を変えた。その後彼女は床に置いてあった自分の主人の黒いリュックサック目指して走り、その入り口からまるで自分の巣であるかのように飛び込んでしまう。
 「どうしたの?」
 「警戒してる動作だ。誰かいるんだよ」
 ジェラールはドアの方を凝視していた。閉まっていたはずの戸がわずかに開き、そこには人の気配がある。
 「そこにいるのは誰?ジャンヌ?」
 蝶番が不気味な音を立ててゆっくりと伸び、ドアが開いた。
 「すみません・・・」
 明かりの消えた暗い秘書室から出現したのは、清掃係のモルグだった。
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