「あーあ、誰だよ、泣かせたの」
背後でシゲオの声が聞こえ、大きな手が潤の背中を叩いた。
「どうしたんだよ、みんな困ってるよ」
肩をつかんで起こされそうになったが、シゲオに泣いているところを見られたことを知った潤はますますどうしてよいかわからなくなり、頑固にテーブルにへばりついていた。
「泣くなよ。男がみっともないぞ」
「みっともないのはてめえだろ！ヒモ野郎」
いきなり立ち上がり、ソファを乗り越えてシゲオに襲い掛かった潤を、周りの客がいっせいに止めた。
「ごめん、俺らがちょっと悪ノリしちゃったんだわ。潤ちゃん、帰ろう、ほら、シゲオちゃんにあやまって」
松崎があわてて取り繕ったが、自分のシャツを掴んで泣きじゃくりながらまだ殴りかかろうとしている潤を見下ろして、シゲオは言った。
「おし、珍しい逆ギレを見せてもらったお礼だ。ちょっと顔貸せや」
周囲の客が、鉄拳制裁が始まるものと固唾を飲んで見守る中、シゲオは潤を無理矢理引っ張って表に連れ出した。

ドアを開けると、生暖かい風が隣の店先に出された大きな観葉植物の葉をゆらし、暗いビルの隙間から満月が覗いていた。「ヤプウ」からの野次馬をさけて、シゲオは潤の首根っこをつかまえたまましばらく歩くと、人気の無い路地裏の、シャッターの降りたビルの外階段に腰掛けさせ、自分も横に座った。

「おまえ、酔っぱらってんの？」
「べつに」
「フラフラしてねえか？」
話すのがむしょうに疲れて、潤はため息をつくとまた膝を抱えて泣きはじめた。こうなってくると、もう自分でも何で泣いているのかわからなくなっていたが、シゲオもそれを感じているようだった。
「伊丹さんからなんとなく聞いたけど、ようするに公衆の面前でイタズラされちゃったわけね」
「……」
「で、それがショックだったと」
「……」
「でもさ、それにしても、おまえの泣き方ヘンだよ」
「……」
「潤ちゃん、ヒステリーでしょ」
「たぶん」
しゃくりあげながら潤が答えると、シゲオはおかしそうに笑いながら潤の腕をつかんで身を起こさせ、自分の肩に頭を抱えて言った。
「なんだ、わかってんのか。じゃあ、泣くきっかけもらってよかったじゃん。好きなだけ泣けば？」
「うん、でも、もうくたびれた」

シゲオが見下ろすと、潤は眉をしかめて目を閉じたまま、全身の力を抜いて自分に身をあずけているようだった。
「ラリってんの？」
「うん」
「あんだよ、何食ってんの？」
「アンフェタミン」
「しょーがねえなあ。俺にもちょうだいよ」
潤はモソモソとジーンズのポケットを探ると錠剤のつまったビニール袋を取り出し、数錠のエフェドリンをシゲオに渡した。
「アンフェタミン、なくなっちゃった。それ、エフェドリン」
「やっぱ、ガキはガキっぽいクスリやってんのな」
シゲオがタバコのケースのセロファンをはずしてエフェドリンを包んだので、潤はついでに出した錠剤を飲み込みながらたずねた。
「食わないの？」
「これから酒飲むから。つか、おまえ、もうキマってんだろ？それはペッしろ。ほら、ペッ」
口の前にシゲオが手を出して言ったが、潤はまたため息をついて黙り込んだ。
「…潤ちゃんも、先は長くねえな。俺もだけどよ」
「どうでもいいよ。で、あれは？」
「あれって？」
「こないだの報酬」
「ああ、あれね、いやちょっとまて、オイ！おまえ騙したろ！見ろよこれ」

ドレッド・ヘアをかきわけてコメカミの大きなコブを見せたシゲオに、潤は笑って言った。
「だって朝美さんいたんだもん」
「ウソつくな。あれから仲直りして今はラブラブだもんね。朝美はあの晩、ブラディシープでクダまいて、けっきょく俺がお迎えにあがったのさ」
「まじ？なんであんなにおこってたのに仲直りしちゃうの？」
「だから言ったろ。これだよ」
シゲオは潤の手をつかむと、自分の股間をさわらせた。
「これもショックで泣いちゃう？」
「べつに。さっきは嫌なやつらに笑われたからあたまにきただけ」
「じゃあ、フェラチオしてくれる？」
「朝美さんにやってもらえよ」
潤はフラつきながら立ち上がると言った。
「帰る」
「おい、ヤプウにあいさつしていけよ。このまま帰ったら俺がボコったと思われちゃうじゃねえか」
「やだ。やっぱあの店嫌い。じゃあね」
「あ、そうだ、報酬な、さ来週ライブ来てよ。その時にはブツ入ってるから。ノブちゃんにチケット渡しとく」
歩きかけた潤に言うと、シゲオも「ヤプウ」に戻りながら付け加えた。
「気をつけて帰れよ。途中でくたばるんじゃねえぞ」

▼

マンションにたどりつくと、潤はトイレで吐いた。溶け残った白い錠剤が便器にたまった水の中に落ち、しばらくボンヤリそれを眺めていたが、「もったいねえ」とつぶやいて、ベッドにもぐりこんだ。結局、夜が明けるまで眠れず、かといって起きる気力もなかったが、なんとか翌日の終業式に出席した潤は帰りの足で高円寺の自宅に向かうと、静まり返ったリビングのテーブルに予想通 り最悪の結果の成績表を置いた。

自宅は都内ではかなり広めの、ゆったりした造りの４LDKのマンションだったが、地方の「お屋敷育ち」の母親はいつも持ち家ではないことに不満を言っていた。母親のブルジョア趣味で、室内は一見豪華に飾り立てられていたが、潤にはそんな母親が下品な俗物に見えて仕方がなかった。それでも家を出るまでは父親のお仕置きから自分をかばってくれる唯一の存在だったが、一人暮らしのマンションに様子を見に来るどころかロクに電話もよこさず、潤からの連絡も父親の顔色をうかがって用件だけで早々と切り上げる態度にシラけ、ひさしぶりに立つリビングは冷ややかで息のつまる空間にしか思えなかった。

置きっぱなしのマンガ本でも何か持っていこうと自室のドアを開けると、大方の荷物を運び出してガランとした洋室に父親のゴルフセットや衣装ケースが雑然と置いてあり、もう、自分のいたころの様子とはまったく違っていた。マンガ本を入れたダンボール箱は見当たらず、どうやら父親が捨てたらしいと舌打ちして念のためクロゼットを開けると、棚の上にクリーニングの袋に入ったタオルケットが目についた。それは幼い頃に使っていたミッキーマウスのプリントされた青いタオルケットで、体がはみだすくらい成長してもそれがないと眠れなかったために、両親は渋い顔をしながらも捨てずに潤にあずけていた。
「こんなもんまでクリーニングに出しやがって」
潤はタオルケットを手にとってしばらくビニール越しにミッキーマウスの鼻先をいじっていたが、マンガ本のかわりにリュックに詰め込むと家を後にした。

その晩、疲れが残っていた潤は早めにベッドに入ったが、無意味に神経だけが高ぶって、前日同様しばらく寝付かれなかった。ほとんど毎日のようにドラッグを使用するようになってから、夜は眠れないか、事切れたように倒れこんで寝てしまうかのどちらかだった。手持ち無沙汰で、目を閉じたまま傍らに置いたタオルケットの端を口に入れると、幼い頃、父親に抱かれて眠った時のことが思い出されて、懐かしさがこみあげてきた。

物心ついたときから父親は教育熱心なあまり潤をひとりではほとんど外にも出さず勉強させ、思いどおりにいかなければ容赦なく怒り、殴りつけ、自分の目の届かない時間帯には母親に監視をさせた。しかし、取り決めた勉強の時間以外は人が変わったように潤を可愛がり、キャッチボールをしたり遊園地やキャンプに連れて行ったりと、忙しい仕事の合間をほとんど潤のために使った。そして、夜には必ず潤を抱いて眠った。どんなに叱られても、父親は毎晩やさしい声で潤をなぐさめ、頭をなでて「大好きだ」と言ってくれるので、潤は夜が待ち遠しくて仕方がなかった。父親の帰りの遅い日は、先にベッドにもぐり込んで自分のタオルケットの端を赤ん坊のようにしゃぶりながら待っていた。いつの間にか眠ってしまうことも多かったが、夢心地でベッドに入ってきた父親がそっとタオルケットを口からはずし抱きしめてくれたことを感じると、潤も小さな手をのばしてすがりつき、温かい胸に顔をうずめ安心してまた眠るのだった。

「お父さん」
タオルケットの感触にひたっていた潤は何気なくつぶやいたが、すぐに自分の中で取り消した。あぶねー、騙されるところだった。あれは俺がガキだったからじゃん。まだどんなふうに育つかわかんなかったから。いまは、失敗しちゃったからもうだめだよ。頭悪いから、親父に嫌われちゃった。俺もあんなやつ大嫌い。それから潤は、口の中のしめった布きれで、松崎と江上にされたキスを思い出した。無理矢理舌なんか入れやがって。でも、舌の先で俺の舌をくすぐられてるとき、気持ちよかったな。それに、なんかウニョウニョして、やらしくてドキドキしちゃった…。タオルケットを舌に見立ててディープキスを再現していると、あの時のように勃起してきたので、潤は右手でそれを握り、しごきはじめた。しばらく続けているうちにシゲオのことを思い出し、自分のペニスが「シゲオ並」に巨大化しているところを想像すると笑いがこみあげてきて、しばしオナニーを中断しなくてはならなかったが、結局キスの感覚を再現しながら、あわててとったティッシュの中に射精した。

▼

潤は、バンドをはじめてから知り合った仲間内の女性と体験済みだった。数バンド集まってのライブの打ち上げで、顔見知りだったキャバクラ勤めの「お姉さん」に誘われての、酔ったいきおいでの遊びのセックスだった。泥酔した「お姉さん」は潤が童貞だと知って好奇心がわいたのか、自分の部屋にさそってさんざん手ほどきしたものの、あっというまに果 ててしまった潤に物足らずバイブレーターを使った自慰まで見せつける始末だった。潤はさすがにシラけて「お姉さん」には何の魅力も感じず、むしろ軽蔑さえしたが、その後も惰性で会ううちにすっかりこの恥じらいのかけらもないセックスに慣れてしまった。「お姉さん」は会うたびに自分の好みの愛撫の仕方を教え込み、時には同業者の友人を呼んで潤への仕込み具合を得意げにテストした。そのうち「お姉さん」に本命の恋人ができて潤はお払い箱になったわけだが、その後のライブで再会した時に、新しい恋人の前でまるで別 人のように清楚に振る舞う彼女を見て、あきれて愛想のひとつも言う気がおきなかった。

潤にとっては、「お姉さん」とのセックスも、松崎や江上とのキスで勃起したことも、同レベルの出来事だった。セックスの快感は単純に肉体的なものにすぎず、手の込んだオナニーと一緒だった。ただ、体を与え、相手に尽くすことで堂々と抱き合えることは重要だった。秘め事を共有することで、気兼ねなく甘え、体温を要求することができる。
オナニーが済んでふたたび手持ち無沙汰になった潤は、足りない温かさをタオルケットを抱きしめることで 代用していた。あーあ、ほんとのセックスしてえな。このタオルケットみたいに、誰かに抱っこしてほしい…。タオルケットに顔をうずめると、なんとか落ち着くことができ、潤は目を閉じたまましばらく布地に移った自分の体温にひたっていた。そして、ようやく眠りについた。

電話のベルが鳴っている。やべえ、家からだ！ウトウトしながら出るか出ないか迷ったが、どうせ成績表のことだと思い、潤は居留守を使ってフトンにもぐった。ベルは鳴りやまず、そのうち水の中で響いてでもいるかのように歪み、頭の中に入り込んできた。うるさい、いつまで鳴ってんだろ、しつこいな。何気なく時計を見ると、まだ明け方の４時で、外は暗かった。こんな時間ってことは、家からじゃないのかな。あれ？そういえばいつも留守電にしてるから、こんなに長く鳴るはずないのに。フトンの隙間から見ると、真っ暗な部屋の中に、電話が留守番モードになっていることを示す緑色のランプが光っていた。留守電は４コールでメッセージに切り替わる設定がしてある。じゃあ、これはなんの音なんだろう。

反響するベルの音はやがて空気の振動そのものになり、潤の体を押さえ込んだ。潤は緊張して動くこともできなくなり、心臓に直接響く振動を防ぐために両手で胸をかばうだけでせいいっぱいになった。そのうち胸が押しつぶされて呼吸もできなくなり、意識がもぎ取られそうになった時、ようやく小さな息を吐き出すことができて、それをきっかけに不気味な発作から解放された。空中で収まっていく振動の余韻は、外を走る新聞配達のバイクの音になって消え去った。
潤は、汗だくになってしばらく震えを止めることができなかったが、意識は意外と冷静だった。たぶんドラッグのやりすぎで神経がおかしくなっているんだろうと考え、だからといって薬を断とうとはさらさら思わなかった。ただ、単純に嫌な目にあったとため息をついて、タオルケットを抱え直してふたたび眠った。