#2 夏休み


珍しく留守番電話のランプが点滅していたが、母親からのものだとわかっていたので放置して、潤は制服を着替えるとしばらくアンプを通 さずに電子メトロノームに合わせてギターの練習をしていた。それからベッドに寝そべり、枕元に投げ出してあった少年ジャンプを読むともなく広げ、そのまま少し眠った。目覚めると夜中の2時を過ぎており、シャワーを浴び、カップラーメンを食べてようやく留守電を聞く気になった。

「用件1件です」
「わかってるよ」
機械的なアナウンスに独り言で答えると、スピーカーから母親の声が流れた。
「終業式の日、用事ができました。通信簿はリビングのテーブルの上に置いておいてください」
「ラッキー」

味もそっけもない短いメッセージには落胆したが、最悪の結果 がわかっている成績表を目の前で開けられなくてすんだ安堵で、潤は小さくガッツポーズをした。どうせ後で呼び出されて説教されるとは思ったが、最初のショックから時間がたっていれば、両親も多少は冷静になっているだろう。気楽になった潤はプレイステーションの電源を入れてゲームを始めた。何度もクリアしたゲームだったが、最小限の武器でゾンビを殺すことに熱中したり、最短時間でのクリアをめざしたりと、結局ダラダラと朝まで過ごし、試験も終わったからと学校にも行かず、昼間になってから本格的に眠った。

一人暮らしをはじめてから、潤の生活のリズムはめちゃくちゃになっていた。寝たい時に寝て起きたい時に起き、学校は単位 を落とさないギリギリの範囲でサボリまくった。勉強も試験の前にあわててするだけだったが、遊び過ぎたと自覚したときに、取り繕うように猛勉強をはじめることがあった。父親の呪縛から逃れた解放感の反面 、このままでは本当に見捨てられるという恐怖もあったからだ。

強迫観念に囚われながら教科書を開くと、授業で進んでいるところは当然わからず、だいぶ前に遡って復習をはじめるのだがそれもウロ覚えで、睡眠時間をけずるためにエフェドリンを服用しながらでは、いくらやっても頭に入るはずもなかった。結局、無駄 な勉強に見切りをつけて、いつものようにバンド仲間と遊び回る生活に戻ってしまうのが常だった。

夕方に目覚めた潤は、エフェドリンの残りが少なくなっていることを思い出し、「東大卒でワグナー好きの電器屋」江上に電話をかけた。江上は夜飲み歩く時以外は店番をしているので、たいていすぐにつかまった。この時も、2コールもしないうちに、電話口からくたびれた声が聞こえた。
「はーい、もしもーし」
「潤です。おひさしぶりです」
「潤ちゃん!元気か?なんだよ、たまには顔出してよ」
「うん、そうしようと思って。今日まだお店にいますか?」
「おお、いるいる。夜は金ちゃんたちと約束してるんだけどさ」
「そんなに時間とりません。俺の用事わかる?」
「はいはい、いつものヤツね。こっちはオッケーだよ」
「じゃあ、いまから出ます」
寝汗で湿ったTシャツを替え、潤は東中野にある江上の店に向かった。

 

 

駅から少し歩いた商店街の中の小さなひなびた個人商店が、江上の経営する電器屋だった。店の前には雨ざらしで色褪せたのぼり旗と、ホコリをかぶった安売りのビデオテープのワゴンが出ており、それを見るたびに潤は、店の宣伝としては逆効果 ではないかと首をかしげていた。江上は東大生時代に学生運動に明け暮れ、いったんは大手の広告代理店に就職したもののすぐにやめてしまい、その後もどこへ転職しても長続きせずに、実家の電器屋の後をついでお茶を濁していた。いまだにインテリ気分で鼻柱が強く、自分にとっては不本意な電器屋経営には熱心でなかった江上は、結局50才を過ぎてもアングラ舞踏劇団やシゲオの「ヘヴン」に入れ込み、同じような不良もどきの業界人たちと飲み歩く毎日だった。

潤が店に入ると、ドアベルの音で、居間とつながっている間口の暖簾をくぐって江上が出て来た。
「お、いらっしゃい」
「景気、どうですか?」
「ダメだね。量販店に押されちゃって、うちなんかもう風前の灯だよ」
「あのさ、表のビデオ、たまにはホコリ払ったら?」
「あれはカミさんの仕事なんだよ。オイ!」
江上が乱暴な口調で家の中に呼びかけると、厚化粧でヤボったい小太りのおばさんが、愛想の片鱗もない表情で出て来た。
「表、掃除しとけ。お客さんだから、店番たのむ」
返事もしないで表に出た妻に舌打ちすると、江上は2階の自室に潤をあげた。

壁が見えない程LPレコードが積み上げられた部屋の、わずかに残った畳の部分に腰をおろすと、江上は小机の引き出しから錠剤でふくれたチャックつきのビニール袋を取り出して潤に渡した。
「はい。潤ちゃんだから2000円でいいよ。それから、オマケ」
アンフェタミンとハルシオンが数錠ずつ入ったひと回り小さいパッキンを潤の手のうえに重ねると、江上は「出血大サービス」と言ってニヤッと笑った。
確かに、江上のつける値段はいつも格安だった。江上は専門の売人ではなく、「不良インテリ」を気取る遊びでドラッグにかかわっているだけで、仕入れ先も「素人」の病院関係者らしかったが、誰かが逮捕されたときにイモづる式に摘発されるのを防ぐために出所を追求するのは暗黙のタブーだったので、潤もあえて聞かなかった。

江上にとって、潤の存在は自分の若さを強調できるアクセサリーのようなものだった。潤と対等に会話しなつかれることは、自分がまだまだ現役だということを仲間内に知らしめることになったし、友だちのいない潤は、同世代にありがちなドラッグ体験を吹聴してまわるということもなく、女子高生と違って無責任に連れまわせるので、江上のような連中にとっては都合のいい相手だった。

「クナッパーツブッシュの名演、潤ちゃんに聴かせてやりたいんだけど、最近居間のステレオが使用日決められちゃってさ」
「ガンガン爆音でかけるからだろう」
「下の子どもが高校受験でさ。さすがに折れたよ」
「つうかさ、ホールで聴く生音以上にボリュームあげて、なんか意味あるの?」
ひさしぶりのアンフェタミンをさっそく水無しで飲み込んだ潤が言うと、江上は笑って言った。
「でました、潤ちゃんの生意気攻撃。ドラッグといっしょだよ。ハマればハマるほど足りなくなってエスカレートしていくの。そして限界に挑戦するようになる。体もオーディオもね」
「ふん、最後にはどうせバッドになってイカレちゃうのにね」
「しかし、スピーカーは買い替えられるが、体はひとつだ。潤ちゃんもそろそろ気をつけたほうがいいぞ」

ノブさんと一緒だ。なんでみんな自分のことは置いといて、俺にばっかり説教するんだろう…。潤には、成長期の自分と大人の違いが理解できなかった。生意気な口はそのために出るのだが、江上をはじめ松崎やナベなどの年上の連中が、そんな自分の態度を楽しんでいることも知っていた。さらに、自分でドラッグをすすめておきながら常識ぶったセリフを吐く無責任な連中には、自分も無責任でいいという考えから、相手によっては潤は生意気を通 り越した辛らつな口もきいた。

「江上さんこそ、いいおっさんだし、そろそろ限界なんじゃない?さっさと足洗って、子どもの学費でも稼ぎなよ」
「キビシイなあ。でもそうだな、俺と違って子どもは頭悪いからよ、どっかの馬鹿私大入れる金くらい作っといてやらないとな」
「…いいな、江上さんちの子。俺は頭悪いから追い出されちゃった」
「よしよし、じゃあおじさんが慰めてやろう。金ちゃんたちとヤプウで会うから、一緒に行くか?」
目的の薬は手に入ったし、ヤプウと言われて気乗りがしなかったが、シゲオの件が気になったので潤は同意し、江上と下北沢に向かった。

 



 

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