翌日も胸苦しさが治まらず、大学には行ったもののアーメッドは講議に出ず、キャンパスの芝生に横たわってボンヤリ空を眺めていた。空は雲ひとつなく晴れ渡っていたが、宙にまで抜けるようなアブハの空とは違う。ここの空は、手前で何かがひっかかってるみたいだ。霞でもモヤでもない、目に見えない、重たく淀んだ粒子の層。これは、俺の中身を作っているものと同じだ。

「またサボりか?」
横を通りかかった長身の青年が声をかけてきた。サイモンだ。彼は同期だがほとんど授業には出ずブラブラ遊び回っている、いわゆるドロップアウト組だった。長くのばした明るい金髪に、サイケデリック模様のシャツを羽織り、首からは大袈裟な十字架をぶらさげているサイモンを見て、アーメッドはあきれたように言った。
「おまえにだけは言われたくないな。あいかわらずひどい格好だ」
「ネオサイケって言ってくれよ。俺はラブ&ピースの体現者だぜ」
「いつの時代の話をしてるんだ。おまえたちがそんなこと言ったって、戦争はいくらでも起きてるじゃないか。ラブ&ピースなんてのらくらするための口実だろう」
「厳しいな、図星だ。まあ、なまけもの同士、仲良くしようじゃないか」

そうだったな、俺もなまけものだ。アーメッドは隣に腰をおろしたサイモンを一瞥すると、さっきまでのように空を眺めて言った。
「あいさつはそこそこにしてさ、おまえそろそろやばいんじゃないか?その様子じゃ就職なんかぜんぜん考えてないんだろ」
「ああ、就職か。俺は自由人だからな。しばらく世の中見てから考えるとするか」
サイモンは生粋のアメリカっ子で、両親は大きくはないが安定した経営の町工場を郊外に持っていた。卒業したら小説家になるだのミュージシャンになるだの、将来の目標は聞くたびに変わったが、最終的には家業を継ぐ余裕の上での気紛れのようだった。
「おまえは気楽でうらやましいよ」
アーメッドが言うと、サイモンは鬼の首でもとったように答えた。
「おまえこそうらやましいぜ、アラブのおぼっちゃん。帰ればお姫さまがわんさかお出迎えだろ。いや、失礼。第一婦人はイーファンだったな」
またこれか。こいつはアラブ人がみんな石油王だと思ってるんだ。
「イーファン?無理に決まってんだろ。彼女に改宗させるわけにいかないよ」
「ムスリムか」
「ああ、決まりごとなんだ。ムスリムと結婚できる女の子はムスリムだけ」
「そりゃキビシイな」
「そういうこと。それに、地元のおまえと違って、俺はわざわざサウジアラビアくんだりから留学してんだよ。ボンクラだから私費でな。なんでそんな大金使うかわかるか?」
「ハクつけて国に帰って、しこたま儲けるんだろ」
「そう、身につけた知識や技術で儲けた金で学校を建てる、病院を建てる、貧しい人たちの住宅を建てる、つまり国を背負って来てるんだよ。俺たちは」
「そのわりにはおまえはやる気なさそうだな」
「ああ、俺は落ちこぼれだ。なんでここにいるのかもよくわかってねえんだ。ヘタするとビザも取り消されるな。こんなんで帰ってもいい面 の皮だ」

ゆうべの夢の痛みがまた蘇り、アーメッドはサイモンに背を向けて長いため息をついた。
「煮詰まってるなアーメッド。そういう時はだな、今ここにいる自分だけを信じるんだ。Be Here Nowだよ。今現在、正直どうしたいんだ?」
「今か……」
すぐにアーメッドの脳裏に浮かんだのは、国の家族のこと、イーファンのこと、自分の将来のこと、そして何もかもがうまくまわらない苛立ちだった。俺は少なくとも目の前にいるサイモンよりは努力をし、考え悩んできたと思っている。でも、やってることはこいつとちっとも変わらないじゃないか。むしろ、俺のほうが世の中をなめている。友人の「アーメッド」のように貧困にあえぎながらも純粋に信仰して頑張ってるやつもいるのに、俺はどうだ。親がかりで世間に送りだされながらも、すぐにつまずいて、信仰どころか面 倒な事をすべて後回しにして勝手な言い訳を探してるだけじゃないか。
「何もかも、なくなっちまえばいいと思ってるよ」
口をついて出た言葉に自分でも最低だと思ったが、じっさいこれがアーメッドの本心だった。

サイモンは面白そうに笑いながら言った。
「じゃあ、おまえはテロリストにでもなって、何もかもぶちこわしてしまえよ。俺は時代おくれのヒッピーとして愛と平和を歌おうじゃないか」
「どっちも、三流映画でまっ先に殺られる役だな」
「上等じゃないか、今夜、コンビ結成の祝杯をあげよう。うまいチョコレートがあるんだが、食いにこないか?」
「いいね、じゃあ、あとで行くよ」
サイモンが立ち去るとアーメッドはしばらくそのまま寝そべっていたが、思い出したように腕時計を見ると身を起こしアルバイト先へ行った。

 

 

アーメッドは週に3回、先輩のツテでようやく紹介してもらった小さな法律事務所で雑用のアルバイトをしていた。学生ビザでの就労は禁止されていたが、学部に合った職種で一定期間働くことはプラクティカル・トレーニングとして手続きさえすれば可能だった。労働というより実習としての意味合いが強いため報酬は微々たるものだが、それでもアーメッドにとっては貴重な収入源だった。
熱心なイスラム教徒である先輩は、仕事中にも礼拝をできるよう職場にかけあい、事務所の片隅には礼拝用の小さなカーペットが敷いてあった。先輩の手前もあり、アーメッドも職場ではきちんと戒律を守るそぶりをしていたが、仕事を中断して礼拝する背に、冷たい視線が向けられていることをいつも感じていた。時にはあからさまに嫌味を言われることもあったが、女性事務員たちは彼に好意的だった。

じっさい、アーメッドは女好きのするタイプで、整った輪郭に憂いのある大きな黒い瞳、それを際立たせるようにくっきりと弧 を描く眉、どこか不安定ではかなげな唇を持ち、青年ではあるが時おり少女のような面 影が浮かぶ、エキゾチックな顔だちをしていた。それと対称的に、均整のとれた骨格を適度にひきしまった筋肉が包み、隙のない物腰は意識しなくても人目を奪った。
女性事務員たちは何かと彼のプライベートな生活をさぐり、気をひこうとやっきになったが、アーメッドにはそれがたまらなく嫌だった。軽薄なやつらだ。俺がどんな人間かわかってるのかな。どうせたいした考えもなく、その場の遊びの相手が欲しいんだろう。俺を毛色の変わったおもちゃとでも思ってるんだ。
イーファン、会いたいな…。昨日会ったばかりなのに、もう何年もたってしまったみたいだ。アーメッドは彼女のくったくのない素直な笑顔を思い出し、想像のなかでほほ笑み返した。しかし、考えてみれば彼女だってその場だけに変わりない。国に連れて帰ることなんて許されないし、俺がアメリカで就職することも考えられない。仮にそうなったとしても、彼女に不自由をさせない生活を手に入れることも、彼女がムスリムになることも、彼女の両親がわだかまりなく俺を迎え入れることも、俺がテロリストになることよりむずかしいな。

アーメッドはサイモンの冗談を思い出して、苦笑した。それに彼女だって、そんなことは充分承知のはずだ。なんであの子は、苦しむのがわかってて俺を放そうとしないんだ。なんであんなにしあわせそうな顔をしていられるんだ。苦しいのは俺だけなのか?彼女も、ここの女たちと同じなのかな。
くそ、またループにはまってやがる。サイモンのやつ、チョコレート持ってるって言ってたな。憂さ晴らしにちょうどいいや。業務を終えさっさと帰り支度をするアーメッドに女性事務員のひとりが食事をさそってきたが、彼はにこやかに勉強が忙しいと告げ、サイモンのアパートに向かった。

 

 

同じ市内に住む彼の部屋を訪ねると、ドアを開けた瞬間に香の匂いが立ちこめ、すでに酔ったような顔をしたサイモンが出迎えた。
「待ってたぜ、相棒」
部屋にはジミ・ヘンドリックスやドアーズ、ヴァニラ・ファッジなど60年代のアーティストのポスターが壁紙のように貼りつめられ、そこここに男女の身体をモチーフにした悪趣味なポップアートが置かれていた。窓がふさがるほど積み上げられたCDやLPレコード、巨大なJBLのスピーカーからは扇情的なエレキギターの音が流れ、アーメッドは眉をしかめて言った。
「まるで地獄だ。俺がイスラム過激派だったら、まっさきにテロるのはおまえだな」
「またぶっそうなことを。ま、座れよ」
派手な黄色いソファに腰掛けると、サイモンはテーブルに置いてあった小さなピルケースから土塊のような固まりを取り出した。

「嗅いでみろよ、極上のチョコレートだぜ」
「おまえの極上はいつも安物だけどな」
「口の減らねえおぼっちゃまだ。これが好きでしょうがないくせに」
サイモンは隠語でチョコレートと呼んだ大麻の樹脂の塊を爪で少し削り取ると、パイプに入れてライターで火をつけながら一服吸い、煙のゆらぐそれをアーメッドに渡した。鼻をつく独特な匂いの煙を胸の奥まで吸い込み、ゆっくりと吐き出したアーメッドは、背もたれに深く寄りかかり最初の印を待った。
印はすぐに現れ、正面のラックに置かれたコンピュータのモニタの中で、変化を続けるスクリーンセイバーのフラクタル模様が収縮しながら空中に染みだし、一定の成長を遂げるともつれあうように輝きながら床に落ちていった。
「うまいな」
「だろ?だからおまえを呼んだんだ。遠慮なくやってくれよ」

2服目をきめると金属的なエレキギターの音階が境界線を失い、ひとつのうねりとなって床に落ちたスクリーンセイバーの光を拾い上げ、ヒステリックにシャッフルしながら部屋中にまき散らした。その破片がパラパラと頬にあたり、落ち着かなくなったアーメッドはサイモンに言った。
「美しくねえな。なんかちがうのかけろよ」
「はあ、お上品だこと。じゃあおまえにぴったりのを選んでやろう」
サイモンはLPレコードの山から一枚を引っぱり出すとプレイヤーに乗せた。数秒間、レコード針の摩擦の音が部屋に響き、散らかったギターの音と光の破片を掃除すると、悲しげに折り重なるヴァイオリンの旋律が淀んだ空気に静かに流れ込んだ。やがて足下から立ちのぼってきた音の余韻の靄は、永遠に明けない曙がうなだれた白鳥の背を照らすように、ぼんやりと空間に広がっていった。
「パルジファルか。鬱になりそうだな」
「なんだ、ムスリムもワグナーなんか聴くのか?」
おかしいな、またこれだ。なんで俺はこんな音楽を知ってるんだ。どっかで聞いて忘れてるのかな。
「鬱ならおまえにぴったりだろうが。嫌なら取り替えるが?」
「…いいよ、さっきのよりマシだ」
アーメッドはまとまらない思考でこの曲をどこで知ったのか思い出そうとしていたが、流れてくる旋律の奇妙な懐かしさにひたってしまい、眼を閉じてつくった暗闇の中にゆらぎながら漂っていた。この暗闇を、俺は知ってる。ここはいつも俺がいたところだ。俺だけの場所だ……。

「ペルシャのお姫さまみたいだ」
「……え?どこ?」
サイモンの声に引き戻されて目を開けると、彼はアーメッドの横に座り、何服目かのチョコレートを吸いはじめたところだった。
「あんまり飛ばすなよサイモン。動けなくなるぞ」
聞こえないそぶりで煙を胸に入れパイプから口を離すと、サイモンはいきなり腕をのばしてアーメッドの頭を引き寄せ唇を重ね、自分が吸った煙を吹き込んだ。驚いてむせながら抵抗するアーメッドをサイモンは放さず、すべての煙を口移しで与えると苦しげな顔で言った。
「おまえが悪い。おまえが俺をさそってるんじゃないか」
「てめえ!何やったかわかってんだろうな、変態野郎!」
「アーメッド…」
ふたたび覆いかぶさってきたサイモンを殴り倒してやろうとしてアーメッドは拳に力をこめたが、何度も名前を呼ばれながら抱きしめられるとやる気が失せ、そのまま怠惰に抱かれていたいという願望が湧いてきた。ちくしょう、何だってんだ。こんなやつ、普段なら一発で片付けてやるのに。
「アーメッド、おまえはつらいんだ。助けが欲しいんだろ?」
「やめてくれ、いらねえよ、きもちわりいんだよ」
「うそつくな。何度もこうしたじゃないか。おまえは最後には必ず俺にすがってくるんだ」
「何言ってるんだ、おまえキメすぎだ。頭を冷やしてくれ、サイモン」

やっとの思いでサイモンを押しのけたアーメッドは、目の前にある顔を見て凍り付いた。それはサイモンではなく、見知らぬ 、いや、よく知っている男だった。止まった時の中、ただ憂鬱に流れるヴァイオリンの旋律を、青い電光を放ちながら静かに乱入した管楽器の一群が破った。……そうだ、俺にこの曲を教えたのはこの人だ。この人と俺は、いろいろな話をした。
男は冷酷にもとれる無表情でアーメッドを見つめていた。これはこの人の癖だ。この人は誰にも手の内を明かさない。知られてはいけない暗闇を持ってるからだ。この人は自分と同じ暗闇を俺に見つけて、近寄ってきた。
アーメッドの頬を暖めるようにあてられた男の手は、やがてゆっくりと髪をかきあげ、親指を軽く耳たぶに触れてその縁をなぞった。懐かしいな…。アーメッドは抵抗することも忘れて男を見上げ、少年が憧れの人の名を呼ぶ時のように、切なくささやいた。
「エルアミール…」

自分の声にハッとして見回すと男の影は消え去り、サイモンが床にうずくまっていた。
「まじかよ、思いきりやりやがって」
「サイモン、どうしたんだ?」
「おまえこそキメすぎだ、アーメッド。ちょっとふざけただけじゃないかよ」
「俺、何やった?」
「ケリ入れただろうが、たった今!」
「悪い、いや待て、おまえが先に…」
「もう言わないでくれ。どうしようもねえんだ。俺が悪かった、忘れてくれ」
やっぱりやったんじゃないか、ホモ野郎が。アーメッドは胸がむかついたが、さっきの男の面 影がよぎり、仕方なく言った。
「サイモン、バッドトリップってことにしておこう。安物のチョコのせいだ。しばらく俺たち遊ばんほうがいい。おとなしく勉強でもしてろ。いいな」



 

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