海岸をひきあげコンドミニアムの近くにさしかかると、二人は向こうから歩いてくる白人の老婦人に出会った。彼女は近所に住んでいるらしく、たまに行き会った時にはサイードはカタコトの英語であいさつを交わしていた。英語に関してはアルナミよりサイードの方が上達が早く、アルナミは悪魔の言葉なんて脅し文句さえ覚えておけばいいんだと負け惜しみを言っていた。老婦人は二人の姿を見つけるとニコニコしながら声をかけてきた。

「今、お帰り?毎日レッスンで偉いわね」
なんのレッスンなんだと思ったが、サイードも笑顔を返して答えた。
「ハイ、マイニチ、イソガシイデス」
「生活には慣れた?困った事があったらいつでも聞きなさいね」
「アリガトウゴザイマス」
「あなた、英語がずいぶん上手になったわ。そうそう…」
老婦人は質素なハンドバッグをゴソゴソさぐると、小さなキャンディーをとりだしてサイードの手にひとつのせた。そしてアルナミにも差し出した。
「どうぞ。あなたも」
アルナミが緊張して黙りこくったまま手のひらを出すと、彼女はセロファンに包まれたオレンジ色のキャンディーをのせて言った。
「明日もいい日になりますように」

「俺たちをガキだと思ってるんだ」
老婦人が去るとアルナミがいまいましそうにつぶやいたが、サイードはキャンディーのセロファンをはがしながら言った。
「いいじゃん、もうけたから。あの人いつも親切なんだよ」
「それ、食うのか?」
「食うよ」
「汚れてるよ」
「いや、俺のは汚れてない」
サイードはキャンディーを放り投げると器用に口で受け止めた。
「甘い」
「いいな、おまえは脳天気で」
「…………あっ」
「何?」
「……もしもあの人が俺たちの飛行機に乗ってたら」
言いかけてサイードは口をつぐんだ。

「ほら」
まるですべてを見すかしたようにアルナミが言った。
「だから、考えたり感じる自分なんて邪魔なだけなんだ」

アルナミは自分のキャンディーをとりあえずポケットに入れると、神妙な顔をしているサイードの肩を叩いてさっさと歩きはじめた。

この出来事を境に、サイードは時々ふさぎ込むようになった。他のメンバーたちは彼が計画を聞いて怖じ気付いたのかと考え、ひまさえあればハイジャックの過程を徹底的にシミュレートさせ「実行の手引き」を暗唱させ、悪魔がいかにひどいやり方でイスラム社会を破壊してきたかを延々と語って聞かせた。じっさい多忙なら多忙なほど余計なことを考えずに済むので、サイードもむしろそれを望んだ。
アタは、サイードの報酬をアフガニスタンの家族に支払っており、計画が成功すれば報酬だけでなく「名誉」も、おまえの家族に与えられるのだと言った。そして、こうも付け加え た。
「悪魔はまずはじめに弱い心に入り込み、それを支配しようとする。もしおまえの心が何かに揺れ動くことがあれば、それが試練のはじまりだ」

迷いを忘れたい一心でがむしゃらにトレーニングや勉強に打ち込むようになったサイードはふと思った。立ち止まると墜落するってこういうことだったんだな、と。アルナミはいつからこんな日々を送ってきたんだろう。

 

 

そんなある日、このところよく続く雨のなかジョギングを終えたサイードが一人部屋で計画書を復習していると、いきなりドタバタとメンバーたちが帰ってきた。ハムザとアルハズナウィ、そしてアルナミだった。ハムザはリビングに入るなりアルナミを床につきとばし、思いきり脇腹を蹴りあげた。
「ど、どうしたんですか!?」
普段はおだやかで人のいいハムザが怒りをあらわにして言った。
「こいつ、とんでもねえことしやがった」
「な、なに」
「アメ公の犬を刺したんだよ、傘でな」

3人が他のメンバーのアジトへ行き打ち合わせをした帰り、吠えかかってきた白人の飼い犬の足をアルナミが持っていた傘の先で突いてケガをさせ、ちょっとした騒ぎになったらしい。あやうくパトカーを呼ばれる寸前でハムザとアルハズナウィが平謝りし犬の治療代を多めに払ってなんとか事なきを得たそうだ。

「この野郎、あれだけ目立つことはするなと言ったろうが」
ハムザがまた蹴りつけようとしたのを見てサイードは反射的にアルナミに駆け寄り、自分の身体でかばった。
「サイード?どういうつもりだ、どけ」
「あの、待って」
「なんだ、おまえもそのケがあんのか?」
「や、ちが…」
「サイード、どけよ!」
次にそれを言ったのはアルナミだった。彼は何ごとも無かったように立ち上がるとふてぶてしく周囲を見回し、平然と言ってのけた。
「悪魔の持ち物を壊して、なにが悪いんだ」

あきれかえっているハムザに、アルハズナウィが言った。
「だめだこいつ、処分はアタさんにまかせよう」

二人が出て行くと、アルナミは雨で汚れた靴のままベッドに身体を投げ出した。
「…まずいことしたな、サイード。おまえ憎まれたぞ」
それは自分だろうがと思いながらサイードは言った。
「なんでこんな馬鹿な事したんだ」
「べつに。犬がうるさかったからだよ」
「おまえビョーキだよ、頭がおかしいんだ」
「頭ならみんなおかしいさ。おまえだって、アタさんだって」

つき合いきれずにサイードはため息をつきながらアルナミのベッドの端に腰掛けた。
「アーメッドはヤケになってるんだろ」
「…なんでヤケになる必要があるんだ」
「正直、俺はいまヤケになってる」
「は?」
「自分がそうなってわかった。おまえはずっとヤケになってる。会った時からずっとだ」

アルナミは寝そべったまま笑い出した。
「俺には、おまえがヤケになってることの方が興味深いね」
「ふざけないで聞け。アーメッド、俺たちのしようとしてることは自殺なんじゃないか?」

アルナミは真顔になって起き上がるとまじまじとサイードを見てつぶやいた。
「…おどろいた……誰がおまえなんかをよこしたんだろう」
「あれからずっと考えてわかったんだ、おまえが心を持つなって言った意味が。俺もいま心を捨てようとしてる、そのほうが楽だからだ。アタさんもそうしろと言う」
「ふーん、ずいぶんかしこくなったな」
「だけど、俺の理想郷の話、覚えてるか?」
「ああ、……英雄の話ね」
「心がなかったら、理想郷なんて無意味なんだ。アーメッド、俺はどうしたらいい?」
「おまえは、ここに来るべきじゃなかったな」
「アーメッドはどうなんだ」
「俺はここにふさわしい人間だよ。だから犬が吠えたんだ。匂うんだよ、犬にはわかるんだ」

ノックもせずにドアが開き、アタが入って来た。
「報告を聞いた。アーメッド、おまえと話をする必要がありそうだ」
「話だけですか?」
アタは顔色ひとつ変えずにいきなりアルナミの頬を平手打ちすると立ち上がらせ、高圧的な目線でサイードを見た。
「サイード、君は優秀だ。試練はいろいろな形でやってくる。君にはそれが理解できるはずだ。アラーが君に期待していることを忘れるな」
その晩アルナミは帰ってこなかったが、翌日スポーツクラブに行くと彼はすでにトレーニングをはじめていた。休憩時間に、アルナミは笑って言った。
「ぜんぜん、ラクショーだったよ」

 



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