なんとなく怪訝な顔をしている朝美を連れて外に出ると、通 りには人があふれ、潤は駅と反対のNHKのほうに歩き出した。
「電車で行かないの?」
「ここからなら、渋谷も原宿もたいしてかわらないよ」
「だって表参道でしょ?じゃあタクシーで行かない?」
「もったいないじゃん」
タクシー代が、と言いかけたところで、潤の携帯電話が鳴った。

「はい」
「山田です」
「は?」
「山田です。切らないで」
それは、どう聞いてもシゲオの声だった。今回も、どうせ何かロクでもないことの手伝いだとわかっていたし、ジョイントももらってしまっているので、潤は仕方なく調子を合わせた。
「あ、山田さん、おひさしぶりです。どうしたの?」
「そのー、ご理解いただけてると思いますが、じつはダブルブッキングでして」
「…ああ」
「いいか、ぜったいバラすなよ。じつは女が来てるんだよ。朝美が来るわけないと思って油断してた」
「はい」
「こっちはなんとかして早く帰すから、できるだけ時間かせいで欲しいんだ」
「えーと、ちょっとむずかしいかな」
「頼むよ。バレたら今度こそフられちまう」
「だって、それは山田さんの責任でしょ?」
「お願い、朝美にフられたら、俺はもうおしまいなの」
「俺には関係ないし」
「他の連中は俺の女関係ディープに知ってるし、朝美に手出されたら困るからさ、潤ちゃんしか頼める人いないんだよ」
「俺だって、わかりませんよ?」
「そこを何とか。あ、ヤバ、とにかくお願い!」

一方的に切られた電話を手に、潤はシゲオの言葉を反芻して苛立ちを覚えた。…俺がガキだから彼女に手を出せないと思ってるんだ。彼女も、俺なんかになびかないと思ってるんだ。しかし、とりあえずその場しのぎで相手のいない通 話口に向かって「じゃあ、またあとで」とあいさつをして電話を切るそぶりをすると、朝美に言った。
「ごめんなさい、ヤボ用だった。ね、歩いて行こうよ。俺の秘密の場所を教えてあげるから」
「秘密の場所?」
「うん、すごくいいところ。行こ」
シゲオへの反発もあって何気なく手をとると、朝美は反射的にその手をひっこめようとしたが、潤が振り向いて微笑むと、彼女も笑って言った。
「子供とつないでると思えば、べつにたいしたことじゃないわね」
「シゲオさんが悪いんだよ。カノジョを他の男とふたりきりになんかするから」
「ふうん、潤ちゃん、男なの?」
「そうだよ。シゲオさんがするようなことなら、たいていできるよ」
「たとえばどんなこと?」
「こんなとこじゃ言えないよ」
「うまくごまかしたね。ほんとは何も知らない子供のくせに」

 

 

少し遠回りしてNHKの敷地を抜け、国立競技場の裏手から入り、しばらく石畳を歩くと、城壁のような石垣の角に太い支柱が立っていた。それは目線の高さで平らに切り取られ、上部はかなり広いスペースになっていた。潤はその横に立つと、「ここだよ」と言ってわずかな傾斜のある柱に勢いをつけて昇り、石のテーブルのようなスペースの端にひざをついて朝美に手をさしのべた。
「無理よ、こんなところ」
朝美がスカートを気にしていると、潤はあたりを見回して言った。
「だいじょうぶ、夜はめったに人通らないから。ほら、一気に上がっちゃいなよ」
「こんなことが楽しいのね。やっぱり子供だわ」
「登れないからって、負け惜しみ言っちゃって」

勝ち気な朝美はその言葉にカチンときたのか、ハイヒールを脱いでハンドバッグと一緒に柱の上に置くと、潤の腕をつかんで何とか這い上がってきた。テーブルはちょうどふたりがゆったりできる広さで、国立競技場を背にすると、山手線の線路が見渡せた。
「見て。おっかないよ」
腹這いになって線路側を覗き込んでいる潤にしたがって下を見た朝美は、小さな悲鳴をあげて顔をおおった。
「いやだ!落ちたら死んじゃうじゃないの」
競技場の敷地は高い土手を築いて造られており、真下はちょうど坂道の底になっていたので、その落差はかなりのものだった。渋谷と原宿というにぎやかな街の中間にありながら、線路沿いの道は薄暗く、夜間には人も車もほとんど通 らない静かな奈落を見下ろしながら、潤は朝美のセリフをくり返した。
「うん、落ちたら死んじゃうな」

それから仰向けになって、シャツの胸ポケットからシゲオにもらったジョイントを1本取り出すと、朝美にたずねた。
「ライター持ってる?」
「どうして?」
「ライター、貸して」
「子供にそんなもの必要ないでしょ」
潤はもういちどねだろうとしたが、先日コンビニでネズミ花火と一緒に100円ライターを買ったことを思い出し、ジーンズのポケットからそれを探し当てるとジョイントに火をつけた。黙って2服ほどして朝美に渡そうとすると、怒りにふるえている顔が目に入った。

「あなたも、そんなことするの?」
「なんで?朝美さんはしないの?」
「するわけないでしょ。それ、捨てなさい」
「シゲオさんだってしてんじゃん。自分の彼氏に言えよ」
「シゲオは、私の前ではしないわよ」
「…へえ、かわいそう。シゲオさん無理してんだ。だから」
「浮気するのよね」

言いかけて失敗したと口をつぐんだことを朝美が自分で言ったので、潤はあわててとりつくろった。
「いや、そうじゃなくて、あの、浮気とかじゃなくて、シゲオさんお酒飲むでしょ?いつも飲んでるじゃん、体に悪いなと思って」
「そう、お酒も飲むのよね。毎日毎日、泥酔してわけがわからなくなるまで飲まないと気がすまないのよ。どうしてシラフでいられないのかしら」
「…時間がたつのが遅いんだよ」
「どういうこと?」
「時間がたつのが遅くて遅くて、しんどいの。だからヒマつぶしが必要なの」

朝美に反抗するように、わざとらしくまた一服して、潤は夜空を指さした。
「星」
煌々と照る街の灯と汚れた空気に邪魔されて、空は単なる覆いのようにしか見えなかったが、それでもかすかに星の光を通 過させていた。
「途中をすっとばして、あそこまで行けちゃえばラクなのにな」
意味をとりかねたのか、朝美はしばらく横たわる潤を見つめていたが、ふとつぶやいた。
「シゲオが、あなたのこと、天使のなりそこないって言ってたよ」
「なにそれ。死にかけってこと?」
「そうかもね。ふたりとも死にかけだわ。馬鹿みたい」
「死にかけの人とつきあってる人も、馬鹿みたい」
「あっ、嫌だ、ストッキング破れちゃったじゃないの」

急に話をさえぎり、膝のストッキングの破れをなぞっている朝美の顔は、うつむいて長い髪にかくれていたが、語尾がわずかに震えていたので泣いていることがわかった。潤は驚いたが、大麻でのぼせた頭でうまい言葉も見つからずに黙っていると、朝美はつぶやいた。
「嫌な日だわ、嫌なことばっかり。シゲオにはウソつかれるし、変な子供にストッキング破かれるし」
「俺破いてないよ」
「同じことよ。それに、わかってるわよ。あなた、シゲオとグルなんでしょ」
「ちがうよ」
「わかってる。どうせ女が来てたのよ。だから私を追い払ったの」
「シゲオさんに言いなよ」
「…言ったら、終わっちゃうもの」

それを聞いた瞬間、なぜか潤は父親の顔を思い出した。自分には、言わなきゃいけないのに言っていない言葉がある。それはいつも心の中にわだかまっていたが、漠然としすぎて言葉どころかイメージにさえできていなかった。目をそむければ何でもないことのようにも思えるし、反対に、いつも縛り付けられているようにも思える。なんだろう、でも、たぶん俺のも同じ類いの言葉だ。言ったら終わっちゃうこと。どんなにハッキリしても、それが現実でも、言ったらすべてが終わってしまう言葉だ。

 



 

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