競馬雑記帖

NO.11  魚を見ても興奮しない子供達

我が家の前を新川という水路が流れている。旧江戸川と荒川・中川を結ぶ両岸ともコンクリート護岸が施された“都会の川”だが、毎年ハゼが釣れ、カモが巣を作り子育てをしている。その新川で先日、コイの群れを見た。30cm前後から50cm級の良型で10尾程が水面直下を泳いでいた。中に2,3尾の錦ゴイが混じっており、どこかで放流されたものが、江戸川か荒川を通じて入ってきたのだろう。何故かちょっと嬉しい気持ちになった。

 

小生は、東京の下町、江東区・亀戸の生まれである。近くを中川放水路が流れていた。今では、両岸に樹木や草花が植えられた“スーパー堤防”が造られ、周辺住民の散歩道になっているようだが、小生が子供の頃には、両岸は高さ1m程のコンクリート堤防になっていた。

学校から帰ってくると、近所の子供達と、駄菓子屋で買った玉網の柄に竹の棒を括りつけたものを持って毎日のように中川放水路の土手に通った。時々水面に浮いてくる小魚(クチボソ=タモロコ、モツゴなど)をその柄を長くした玉網ですくうのだ。幅30cm足らずのコンクリート堤防上を水面を覗きながら歩くのだが、小生の知る限り、川に落ちた子はいない。昔の子供は敏捷で大丈夫だった−等と言うと、語弊があるのだろうか。

 

すくえる魚は、ほとんどの場合、全長5、6cmのクチボソなのだが、雨後などの増水時にはマブナが浮いてくることがあった。そのときは、もう大変である。長い柄のついた玉網を持った子供達が2組、3組とコンクリート堤防の上を走りまわるのだ。とにかく、クチボソとマブナでは「格が違う」。当時の東京・下町の子供達にとってはマブナは、まさに格別な存在だったのである。コイとなれば、もう別格も別格、手にしたこともない垂涎の魚であった。

 

東京のど真ん中を流れる神田川を始め、最近では河川の水質浄化を促す意味もあって、あちらこちらでコイの放流が行われている。そのため、都会を流れる川で度々コイを目にする。そのせいか、現代の子供達は川でコイの群れを見ても、大して関心を示さない。「ふーん」てなもんである。先日、小生が新川のコイを見て喜んでいたら、その脇を小学生の一団が通って行ったが、彼らが見ていたのは、コイではなく、コイの群れを見て喜んでいるオヤジ、つまり小生の方であった。しかし、それは彼らにとって幸せなことなのだろうか。興奮しないということは、感動もしないということである。

小さなマブナが浮いているだけで興奮していた我々の餓鬼時代。小学校4年の時、近所のオジさんに常設マス釣り場に連れて行ってもらい、ニジマスを初めて釣った。そのときの感動は今でもはっきりと覚えている。小生が釣りにのめり込んだのもあのニジマスからだったのかも知れない。

 

現代の日本の子供達は、あまりに恵まれていてちょっとやそっとのことでは、興奮も感動もしない。しかも、自分達の“環境”がいかに恵まれているかとの自覚もない。それは、本当に幸せなことなのだろうか…。

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