いなばさま
本庄城東南の杉林の中に“いなばさま”と称される小さな祠があります。昔からの言い伝えでは「柴田因幡守墓所」と云われているようですが(それもほとんど知られていませんが)・・・・。
国道7号線から本庄城南東がわの杉木立の中を進んで行くと、左側の小山の上に「いなばさま」と呼ばれている小さな祠があります。
村上市 歴史散歩 著者 鈴木ナ三氏 によりますと「この柴田因幡守という人は村上城主歴代譜という本によると、上杉謙信が本庄繁長の村上城を攻めたとき(永禄十一年)、二の手を率いた大将とされています。また、村上雑談記という本には『上杉家ノ下知ヲ背キ、此処へ落来リテ切腹ス』と書いてあります。この人は新発田重家で・・・」と書かれてありました。
 なぜ新発田重家が此処で切腹?・・本庄繁長は謙信に反しても許されたのに、重家は景勝に反したら滅ぼされたので逆恨みで??・・
いずれにしてもなんか違うんじゃないかなと思いました。
ここからは私kitaの勝手な想像ですが・・・
 《繁長謀叛》
永禄十一年の本庄城包囲布陣は、西軍(現村上市街地側)謙信公旗本、新発田尾張守、中条越前守、鮎川弥二郎、柿崎和泉守とあり、東軍(門前川側)上条弥五郎、斉藤下野守、北条弥五郎、黒川左馬頭、上田修理亮、古志衆、下田衆、大面衆、また南軍は(国道七号線新潟側)枇杷島弥七郎、色部弥三郎、新津丹後守、平賀左京亮、安田治部少、水原蔵人、下条薩摩守、五十公野右衛門大夫とあります。
 この祠があるのは、本庄城南側です。この事件に詳しい方ならピンときたのではないでしょうか。 永禄十二年一月九日の深夜、繁長勢は夜襲を行い、上杉軍有力武将の中では唯一色部勝長が討死してしまったのです。勝長が陣を張っていたのはやはり本庄城南側と推察されます。 
 なんの証拠も在りませんがこの祠は「色部勝長」を奉った祠なのではないのでしょうか?
繁長降伏後謙信が下した処罰は繁長の長男千代丸を人質に出させる事と座敷を失った事でした。
 繁長本人の償いは不明ですが、繁長が意図して勝長を討ち取ったとは考えられず、ましてお互い元をたどれば秩父行長・為長の兄弟を祖に持つ間柄であり、当然繁長の懺悔の気持ちを形にして勝長を奉る祠を討死の地に建立したとしても少しも不自然でないと思います。
 そうすれば柴田因幡守墓所という言い伝えがなんとなく不自然でな無い様な気がします。
「いなばさま」「いろべさま」なんとなく似ていませんか? ましてこの辺の訛りで発音されたら聞き取り不可能・・かも。
 

上記は私kitaの妄想で根拠も怪しいですが、そうゆう風に考えると本庄城を訪ねるのかもっと面白くなると思います。

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