Why bin Laden plot relied on Saudi hijackers


サウジアラビア南西部の街タイフを通 り抜ける二車線の高速道路は、1960年の終わり頃、ムハンマド・ビンラディンによって建設された。この仕事は建設会社を経営する彼にとって、サウジアラビアに貢献したという誇りであった。彼の息子ウサマ・ビンラディンは、この道をサウジアラビアの中心部まで延長した。その中心部は、社会からの孤立や貧困、過激なイスラム原理主義思想に満ち、アルカイダ・テロネットワークが政府に不満をもつ中流階級の若者を勧誘するのに適した場所だった。


サウジ南西部を走る15号道路

アメリカとサウジアラビアの当局者は、この狭く危険な道路沿いで、ビンラディンとアルカイダがサウジ政府とアメリカの関係に楔を打ち込む9・11同時多発テロの計画を立案したと見ている。テロ攻撃を実行した19人のハイジャッカーのうち15人がサウジアラビア人で、そのうちの12人はこの高速道路にまたがる地方の主要な氏族出身である。アルカイダは主にこの地域から「ジハード」への応募者を探しているようだ。

南西部出身のビンラディンがどのようにして若いハイジャッカーたちの地元に根付いた深い同族意識や、学校教育の場で育てられたイスラム原理主義の一派であるワッハーブ派の誇りを競わせ利用したかに関する研究が始まっている。ハイジャッカーを生み出した背景を理解するカギは、この道路に沿ったどこかにある。地図上では「高速道路15号線」だが、サウジアラビア人の間では「死の道路」として有名である。この道路はメッカからタイフにかけての低地から豊かに木の茂るアルバハ州へと南に延び、アシール地方の山岳部へ上り、毎年何百人もの事故死者を出すサウジアラビアでもっとも危険な道路と考えられている。

15号線は、鬱屈した中流階級の若者がビュイックやシボレーなどの大きなアメ車に乗り、時速120マイルを超えるスピードでレースをする場所でもある。彼らは雇用の制限によって経済的な成功のチャンスを奪われ、サウジピューリタリズムの下で人生を制限されているという焦燥感や怒りを抱えている。ビンラディンは、その怒りをカーレースなどよりもっと終局的な方法で発散させようとする若者を抱き込もうと着想したようだ。

 

ハイジャッカーの選択、ビンラディンの「指紋」

サイード・アル・ハーシ博士(サウジ内務大臣、ナイフビン・アブドゥル・アジズ・アルサウド皇太子の先任アドバイザー)は、「ビンラディンは、同時多発テロでサウジアラビアのメンツを潰そうとしている」と言う。彼は、ハイジャッカーが主にサウジアラビア南西部の主要な氏族から選ばれたことについて、「ビンラディンの指紋」と呼ぶ考えを明らかにした。

ビンラディンがアフガニスタンで「ジハード参加者」を率いていた1980年代にCIAの秘密作戦を指揮したミルトン・バーダンは、ビンラディンの最終目的はサウジアラビアから米軍をつまみだすことだと気づいていた。ビンラディンはサウド王家を認めず、サウジ王政とそれを支える宗教体制が「異教徒」である5000人の米軍の、聖地メッカとメディナへの駐留を許可することで、その正当性を失っていると断言している。アメリカとサウジアラビアの当局者は、テロ攻撃を遂行したメンバーのほとんどをサウジアラビア人にしたビンラディンの意図は、この攻撃によってアメリカとサウジアラビアの関係に注目させ、ここに米軍が駐留するということをワシントンとリヤドに再考させることであると言う。

ハーシはこうも付け加える。「もしビンラディンがアメリカとサウジアラビアの断絶を狙ったとしても、それは間違いだった。サウジ内では新しい団結が生まれ、我々とワシントンにはテロへの調査で親しく結びついているという認識が生まれた」。 しかし、ある西欧の上級外交官はもっと悲観的な評価をする。「ビンラディンは自分のしていることを確信していた。彼は慎重に作戦に適したサウジアラビア人を選ぶ努力をしたように見受けられる。あるものはアフガニスタンにおり、ある者はチェチェンヘ向かう途中であり、彼が見つけられるあらゆる場所から選定が行われた」。また、「これには単純な理由がある。彼らはアメリカへのビザをたやすく取得できた。そしてアメリカでのフライトトレーニングへ参加した多くのサウジ人がいた。なぜなら彼らには抜け道があったのだ」と彼は語る。

サウジ人ハイジャッカー15人のうちの13人には、アメリカのビザが発行されていた。そのうち10人のビザは、ジェッダのアメリカ領事館で発行されていた。毎年何千人もの若いサウジ人にビザの許可がおりているので、ハイジャッカーたちの申請を選別 することはできなかった、と、当局者は言う。15人のうちの2人だけが、ハイジャカーが6月に入国した後、アメリカの担当者に発表されたマレーシア情報局からのセキュリティリスクリストで示された。このことで、ビザの見直しも検討されている。

今までのところサウジ人ハイジャッカーについて明らかになっていることはほとんどない。なぜならサウジ人のテロへの参加の実態を明らかにすることは、アメリカとサウジアラビアのデリケートな関係に水を差すようなことになりかねないからだ。半世紀の間、両国の政略結婚は続いてきた。9・11テロの焦点がサウジアラビアに当てられることをさけるために、王国は最近まで西側の多くのジャーナリストのビザを断っていた。また、短期間入国できた数人のジャーナリストのために、政府はハイジャッカーたちの地元への交通 を制限し、西側のリポーターの取材に応じる人々はサウジ当局によって拘留された。ハイジャッカーにサウジアラビア人はいないと関与を否定した数カ月後、王宮だけは15人のハイジャッカーがサウジ人だということを公式に認めた。しかし政府は、アルカイダが国内で活動し、新兵を募集しているという見方を否定しつづけている。

 

挫折した夢の終わりと77便の操縦

メッカからはじまった高速道路を南西部へ向かって30マイル行くと、タイフの街である。高級住宅街アルファイサリヤーの付近に、有力な地主で商人であるハンジュル一族が住む。一族のひとりハニ・ハンジュル(29)は、ペンタゴンに突っ込んだアメリカン航空77便を操縦していたと見られている。そして彼はサウジ人の中ではたった一人のパイロットだった。彼の家への取材を試みたが、門前で数人の召し使いに家族からの「ノーコメント」を言い渡され、近所に住むハンジュルの友人やクラスメートに依頼したものの、地元のモスクから来た数人の大男に退去を要求された。

ハニ・ハンジュル(29)

後に、ハンジュルの兄ヤシャッアが電話で手短に語ったことから、サウジ国際航空のパイロットになることを熱望し、挫折した、サウジアラビアの欲求不満の若者としてのハンジュルの姿が浮かび上がってくる。

サウジ国際航空にパイロットとして就職するには、アメリカで取得したFAAの免許をもつことが要求された(これがアメリカの航空学校に多くのサウジアラビア人がいる理由である。サウジ航空の規則は、9・11以降変更された)。このためハンジュルは1999年に渡米して免許を取得したが、帰国後サウジ航空で職を得ることはできなかった。夢の挫折は1年で彼を脱線させた。ハンジュルは家族が経営するネットカフェでネットサーフィンをして時間を潰し、しかし、飛行機の操縦に関する本を手放すことはなかった。そして次第に、戦闘的なイスラム原理主義のテキストやカセットテープへ関心を示すようになった。

2000年12月、ハンジュルはジェッダのアメリカ領事館でビザを獲得しアメリカへ渡った。彼はニュージャージー州パターソンのアパートに住み、2001年6月にはフェニックスのフライトシュミレーターで練習していた。それからボウイ・メッドのフリーウェイ空港で8月にフライト訓練を受けた。これらの練習は9月11日までに完了し、テロ当日、77便がバージニア州ドュレス空港から離陸したあと、短時間のあいだの操縦をハンジュルが行ったとみられている。

アーメッド・アルハズナウィ(22)
アーメッド・アルガムディ(26)
ハムザ・アルガムディ(21)

タイフの街をさらに下るとアルバハ地方、もう3人のハイジャッカーの一団がこの地方から来た。ペンシルバニアに墜落した93便に乗っていたハイジャッカーの一人、アーメッド・アルハズナウィ(22)が、三人組の中心だった。

ハズナウィ一族は20万人を有する強大なアルガムディ氏族の分家であり、ヘンザ村出身のアーメッド・アルハズナウィの父親シェイク・イブラヒムは町の古い商業地にあるモスクのトップだった。アルハズナウィの家族を知る、あるイスラム聖職者によると、彼は1999年の暮れ、チェチェンでのジハードに参戦する許しを父親に求めた。父親はこれを許さず、ジハードとは、コーランの解釈によってたくさんの意味を持つのだと息子に語って聞かせ、戦闘的なジハードでなく、よいムスリムになるために自分を高める、「より高い意味の聖戦」を闘うようにと助言した。

しかし、アルハズナウィは2000年、父親の賛成なしで戦闘的なジハードのために家を出た。友人にはチェチェンのまえに、アルファロークキャンプで訓練を受けるためにアフガニスタンへ行くと告げた。チェチェンへ行ったかどうかは明らかでないが、彼は2000年のラマダンの間にアルバハへ戻り、家族に会った。彼は自分の一族であるアルガムディから同志を探して、ベルジューラシ南部の村から遠縁のいとこアーメッド・アルガムディ(26)とハムザ・アルガムディ(21)を誘い、いとこたちは二人とも世界貿易センタービル南側タワーに突入したユナイテッド航空175便に乗り込んだ。

アルハズナウィは二人にイスラム過激主義のパンフレットやカセットテープを与えてアメリカやイスラエルへの反感を募らせ、信仰を守るための闘いを呼びかけた。サウジ人には屈辱的な仕事と見られている、家庭用品の在庫係として働くことに行き詰まっていたハムザは、この呼びかけに簡単に勧誘された。宗教教師である父親は、彼のチェチェン行きにしぶしぶ同意した。ハムザは2001年2月頃から行方がわからなくなり、6月に両親への電話はあったが、所在を明かさず、自分への「許しと祈り」を頼んでいた。アーメッド・アルガムディはイスラム再生機関「レッドクレセントソサエティ」からジハードへの旅の費用の一部を捻出したとみられている。しかし、詳細ははっきりせず、すべては秘密とされている。

前CIA補佐官事務所の主任ビンセンス・キャニスラロは、「南西部」がハイジャッカー選別 の要所だったと言う。そこにはビンラディンと関わりのあるイスラム聖職者のグループがあり、若者を集める役割をしていた。若者たちはチェチェンでのジハードのために集められたと言われているが、実際はアルカイダによって選別 されており、選別されたサウジ人たちはペシャワールから訓練のためにアフガニスタンに入った。また、9・11作戦のためにアルカイダのリーダー、ムハンマド・ゼイン・アブ・ズバイダの指示でホースト州近くのアルファロークキャンプに集まり、武器の扱い、教化、殉教に関しての神学的解釈(天国での甘い報酬を含めた)など、数カ月間にわたる訓練を受けた。

サウジ内務省当局は、容疑者の具体的な人数や彼らを結ぶネットワークの全容は把握できない、ハイジャッカーの募集はサウジ南西部で行われたとしても、陰謀の進展がサウジ国内で起こることは不可能だと主張する。FBIの調査員は、まだたくさんの盲点があると感じ、ハイジャッカーの個人情報や、彼らとアメリカをつないだネットワークなどに関して捜査を続けている。ワシントンは、公式にはサウジアラビアが調査に協力的だったというが、FBIの調査員は、イスラムの戒律では非ムスリムがムスリムの土地でムスリムを取り調べることは禁止されているからと捜査の足を引っ張るサウジ人に失望している。93年の貿易センタービル爆破事件、95年のリャドでのサウジ駐留米軍施設爆破事件、96年の米軍住宅コーバータワー爆破事件の調査でサウジ人と協力したFBI調査員は、「サウジ人からの助力などないということは我々には常識になっている」と言う。

 

自殺指令のために募集された冒険者たち

アブハで人気のある新聞アルワタンは、ハイジャッカーの手がかりを追跡することで政府の規制を打ち破ろうとしている。編集者のクナン・アルガムディと数人の記者によると、ハイジャッカーの一団はあるパターンを形作っていた。彼らはジハードに加わるために小さなグループでやって来て、最終的な行き場所には気づいていなかったように見える。それらのグループはタイフ、アルバハ、アブハやカミス・ムシャトなどアシール地方の15号線沿いの街で結成された。

記者たちの見解では、彼らはイデオロギーに燃えたイスラム原理主義者というより、むしろ「中産階級の冒険者」であり、このことが彼らを完全なアルカイダの新兵にした。彼らは訓練のためアフガニスタンにいた時にほとんど同時にアルカイダに入り、すくなくともその時は、9・11の攻撃のことを知らなかった。

12月に放映されたビンラディンのホームビデオで、彼は若いサウジ人を下級の兵士と扱っていた。「作戦を指令された兄弟たちは、自分たちが殉教作戦に従事することは知っており、我々は彼らの一人ひとりにアメリカへ行くように指示した。しかし、我々は作戦の内容は明かさず、彼らはハイジャック機に乗り込むまで、作戦について何も知らなかった」と、ビンラディンはビデオの中で述べている。(参考資料:Mainichi INTERACTIVE「ビンラディン氏ビデオ」内容全文)

ハイジャッカーのリーダーであるエジプト人のムハマド・アタは、ローガン空港で発見されたスーツケースに手紙を残していた。前CIAのプロファイリングの専門家ジェロルド・ポストは、彼らは自殺指令に従っていることを知っていた、と言う。ハイジャッカーたちに向けられたらしいアタの手紙には「落ち着け、そして決心を固めろ。若者よ、君はすぐに天国へ行くのだから」と書かれていた。

ムハマド・アタ(33)

ビンラディンは氏族の背景に注意を払いながらサウジ人を利用している。アメリカへのテロ攻撃に際して氏族の誇りをかきたてるように、ビデオの中でアルシェヒの名を7回、アルガムディとアルハズナウィの名を数回くりかえし強調した。ビンラディンがサウジ南西部からそれらの氏族を選んだのは、王室との関係をもつサウジアラビアの中央のエリート氏族へのメッセージだ。彼らは南西部の氏族文化を見下している。ラディンはアメリカへの「ジハード」のためにサウジ南西部へ深い援助をしていることを中央の氏族たちが知るように仕向けた。王室の堕落とイスラムに対する裏切りは、アメリカと結びついていると見ているからだ。

王室によって120人のメンバーが採用された、サウジアラビアの13の州の代表であるシュラ・カウンシルのメンバーの一人、ムハマド・アルズルファは、少なくとも4人のハイジャッカーが出たアシール州出身だ。彼は、「氏族の視点は南西部を理解するのに重要なことだ」と言う。その氏族は、アシール州においては歴史的にワッハーブ派ではない。ワッハーブ派とは、250年以上前に設立されたといわれる清教イスラム学校であり、氏族に押しつけられたため、南西部では特に不愉快で受け入れ難いものだと解釈されている。 ビンラディンは、そのような氏族から注意深くハイジャッカーを選別したように見える。「アメリカはこの選別 の重要性と、裏に隠された意図をほとんど理解していない」と、アルズルファは言う。

 

他のテロ活動に関係する地域

ラディンがハイジャッカーの募集をサウジ南西部で行ったと信じられる他の証拠もある。それを、アメリカとサウジの当局者は「野性的な西の空気」と表現した。穴だらけで無法地帯のイエメンとの国境は、アルカイダが出入りすることを長年許可している。南西部は9・11の募集だけではなく、2000年10月、17人のアメリカ軍兵士を殺したイエメン港での米駆逐艦コールの爆破、1998年に250人以上の死者を出したケニアとタンザニアの米大使館爆破事件にも関係している。

米駆逐艦コールを爆破するための爆弾を運ぶために使ったゴムボートはサウジのジザン港で購入され、イエメンに密輸された。そして首謀者はイエメンを通 ってサウジへ逃亡したと見られている。また、米大使館爆破事件のアジトは、逃亡を容易にするためにイエメンとの国境にあったと見られている。

南西部地方、ことにアシールは、20世紀初頭に王国に服属するまで自治領を持っていた最後の地方だが、ジェッダやリヤドに比べて経済的な開発の死角に入っていた。オイルダラーで発展した他の街は、華やかなショッピングモール、摩天楼、気持ちの良い住宅街、ネオンサイン、手入れされた並木道をそなえていたが、南西部は70年代のサウジアラビアの急発展から忘れ去られ、中流階級の若者にわだかまった経済的な不満は国中いたるところで感じられた。


アシール地方の街アブハ

近年発見されたオイルの貯蔵量は国際的にオイル価格を低下させて不景気を招き、大学卒のサウジアラビア人は職がないか、望まない職種に甘んじるしかなくなった。30才以下の大卒の失業率は3割以上だとの見積もりがあり、逆に、世界で最も高い出生率の国のひとつであるサウジアラビアの人口は急上昇し、25才以下の人口は7割を占める。経済的、社会的問題が高まるなか、南西部はその打撃がもっとも酷い地域である。

詩人で画家でもあり、サウジ王室のなかで地方行政を担当するカリード王子は、アシール州に旅行産業を発展させようとしたが、彼の計画は、地主から土地を買いあさり、彼らの領地をとりあげる独裁者とも見られた。彼は慈悲深い地方の王様で、地域のためにベストを尽くしたと見る人々もいるが、大方の人々は、南西部を旅行センターとするカリード王子の計画は、サウジ市民からは一段劣っているとされるサービス部門の仕事を量 産したにすぎないという見方で一致している。

5星ホテルや遊園地、涼しいそよ風に吹かれるコンサート会場など、アシール地方の開発計画は、他所から来た裕福な王族や商人の一族によって描きだされ、地元の多くの中流階級の人々にとっては、憤慨と欲求不満をつのらせるだけの結果 となった。

ラディンは、地元の氏族を競わせることによって南西部にわだかまった不満を利用するように見えた、と、米調査員は言う。ラディンの亡父はこの地方を愛し、彼の数人の妻はこの地方の出身である。氏族間の友好関係が強いイエメン国境を超えたあたりが、ラディンの父の故郷である。ラディンの父は、1967年、彼がこよなく愛した15号線の視察中に起きた飛行機事故で、アシール地方で死んだ。

なぜ南西部を通るその道から来た15人の若者が、アメリカの土地への非道なテロ行為に参加したのかはわからない。「南西部に行き、アップダウンの多い15号線をドライブしてみれば、15人の若者がなぜ選ばれ、あのような行為に走ったのか、想像することができるでしょう」と、王宮の外交問題のシニア・アドバイザーは言う。「しかし、彼らは1600万のサウジ人の中の15人にすぎません。彼らがサウジ人を代表しているとは言えない。デビッド・コルシェがクリスチャンを代表し、ティモシー・マクベイがアメリカを代表しているとは言えないように」。

アシール地方のシェラ・カウンシルのメンバーの一人も同意する。「15号線を見れば、周囲の地域から出た怒りの理由を説明することはできる。しかし、15人の若者がなぜあのようなことをしたのかについては、答えを出すことはできない。イスラムの人々も、彼らの行いを理解することはできない」。