◆ 嫌な女 ◆
by: 森本様(the Tears of the Steel)
―――引き受けるのではなかったな、こんな仕事…。
単調なメロディを幾度も繰り返しながら、ピアノを演奏をするハインリヒは小さく溜息をついた。
ここはとある店の中。この不穏なご時世にあっても経済的にゆとりのある者が集まる、酒と談笑を楽しむ店である。
ハインリヒは、知人の頼みで、今日一日だけこの店で演奏をつとめていた。
普段この店でピアノを弾く者が、今日に限って、休みをとったらしい。
急な頼みで申し訳ないと、知人はハインリヒに頭を掻いていた。
今、ハインリヒが演奏しているのは、彼も得意な、馴染み深い曲だった。
彼も好きな、美しい曲だったが、残念ながらこの店の客で、彼の今日の演奏に耳をかたむけている者の姿は見受けられなかった。
ことに、ピアノからもっとも近いテーブルに座る男女の態度は酷かった。
男の方は壮年の、それなりに見かけも良い紳士だったが、連れの女性がよくなかった。
彼女は、およそこの店には相応しくないような、ともすれば娼婦とも取られかねないような派手なドレスを身に着けていた。
金褐色の豊かな髪を、彼女はさらに派手なかたちに結い上げていた。
化粧は濃いが、顔立ちはそう悪くはない。
もしかしたら、まださほど齢はいっていないのかもしれないな、と、スコアを見るふりをして、ハインリヒはちらりと彼女の姿に目をくれた。
大きな深い碧の瞳。長い睫。かたちのよい輪郭の横顔。しかし、彼女のせっかくの元来の美しい顔立ちを、あまり上手くない化粧と、有るだけ身に着けてきたような安っぽい装飾品が台無しにしていた。
彼女は、先刻から、しきりに男に喰ってかかっていた。
静かな店内に響く甲高い彼女の声に、周囲の客たちは非難の視線を浴びせている。
店員のひとりが彼女をたしなめに行った。
しかし、すこしおとなしくなったかと思えば、彼女はまたほどなくして、紳士を非難し始めた。
ハインリヒが演奏の傍らに先刻からの二人のやりとりを聞くところによれば、どうやら別れ話のもつれらしかった。
紳士は女と縁を切りたがっているのだが、女はそれを認めない。
さんざん口汚い言葉で、女は紳士を罵っていた。
―――頼むから他所でやってくれ。
そう願いつつ、ハインリヒは無心を装って鍵盤に向かっていた。
演奏は、やがて彼のもっとも好きな小節へとさしかかった。
ようやく彼が演奏に浸り始めた、そのとき―――。
客のテーブルから、絹を切り裂くような女の悲鳴が聞こえた。
件の紳士の怒りがついに頂点に達した挙句、彼が連れの女の髪に火のついた煙草を押し当てたのである。
火はあっという間に女の髪へと燃え移った。
慌てた周囲の店員たちが彼女に水をかけて、火は消し止められたが、酷いありさまになった彼女は、子供のように泣き叫んでいた。
居合わせた周囲の客も、巻き込まれて当惑していた。
ハインリヒはかまわずに演奏を続けた。
店の者も、彼にそれを望んでいた。
この店に相応しい品格のある、そして平穏な空気を呼び戻す音楽を ―――。
そう願って、ハインリヒの指は演奏を続けていった。
そうしてどれくらいの時間が過ぎたことだろう。
周囲がようやく静けさを取り戻した頃。
ハインリヒは、自分に向けられた女の声を聞いた。
「やめちまいな!下手糞!」
一瞬、彼のこめかみがぴくりと動いた。
演奏の手を止めることなく、ハインリヒは視線を声の主に向けた。
先ほど紳士に髪に火をつけられた女が、濡れそぼった酷いありさまのままでその場に立って、ハインリヒを睨みつけていた。
ハインリヒと視線を交えても、女はまったく怯む様子はなかった。
「下手糞!なんでいつもの奴じゃないのよ!今日にかぎって、飛び入りの下手糞が弾いているから、あたしの胸の居どころだって悪かったのさ!」
その後、しばらくして後―――。
紳士と女の姿は、いつのまにか目の前のテーブルから煙のように消えていた。
ハインリヒはそのまま閉店まで演奏を続けた。
後で聞けば、その二人は、以前にもときどき店に現れては諍いを繰り返していたのだという。
紳士は、あれでもこの街の名士で、おいそれとは口をきけない人物なのだと、店の者はハインリヒに説明した。
女が誰で、どういう立場なのかは誰も知らない様子だった。
確かなことは、紳士の奥方は別の女性だということ。紳士とは、おしどり夫婦として知られる、温和で上品な婦人だということだった。
仕事を終えたハインリヒは、その日の給料を受け取ると店を出た。
明日からは別の人間がこの店のピアノの前に座る。
あの、おかしな女とは、もうこれきり顔をあわせることもないと、彼は思った。
―――そのはずだったのだ。しかし…。
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数日後の夕刻、ハインリヒはとある店を訪ねていた。
店は一階にあるが、彼の用がある人物はそこにはいない。
ハインリヒは薄暗い建物の、地下へとつづく階段を降りていった。
階段を降りきってしまうと、そこには小さな部屋がある。
ハインリヒが会いにきた人物―――、中年男のべックはテーブルの前に座っていた。
彼と顔をあわせると、ハインリヒは被っていたハンチング帽を取った。
「あんたの、急な頼みって何だ?」
べックにハインリヒは尋ねた。
「まあ、落ち着いてくれ。そこにかけてくれ」
そう言って、べックは目の前の椅子に座るようにと、ハインリヒに促した。
椅子に腰を下ろしたとき、ハインリヒは背後に立つ人の気配に気がついた。
振り返ると、そこには地味ななりをした、大きなスカーフを頭にすっぽりと被った女性の姿があった。
「―――ヒルダだ。ヒルダ、こいつはアルベルト。オレの古くからの知り合いだ」
べックはハインリヒのことを、そう彼女に紹介した。
ヒルダと呼ばれた女性が、こくりと頷いて見せた。
スカーフに隠れて、彼女の顔は見えなかった。
「頼みというのはほかでもない。このオレのたっての頼みだ!アルベルト、『向こう』におまえが行くときに、彼女を連れて行ってやってくれないか」
「何だって!」
べックの思いがけない言葉に、ハインリヒは息を呑んだ。
べックは、ハインリヒが西側に向かうことの手引きを頼んだ人物だった。
計画の実行はもう目前に迫っていた。
「冗談じゃない!」
ハインリヒは叫んだ。不用意に同行者を増やせるほど、この計画は甘いものではないと彼は思ったのだ。
「今日ここで会ったばかりの女を、オレと一緒に命がけの目に遭わせるつもりか!」
「そいつはこの娘も覚悟の上だ。言っておくが、通行証は一通しか用意できない」
ベックはすまなそうに言った。
「この娘の分はない。悪いが、この娘はおまえさんに隠して連れ出してもらう」
「無茶だ!」
憤ったハインリヒが、バン!と掌でテーブルを叩いたそのとき―――。
「…あんた」
聞き覚えのある声がして、ハインリヒは振り向いた。
そこには、スカーフをはずした女性の姿があった。
誰あろう、ヒルダと呼ばれた女性は、あの日、ハインリヒがピアノを弾いた店で騒ぎを起こした女性だったのだ。
あの日、ハインリヒの腕前を口汚く罵った彼女―――。
かつて長かった彼女の髪は、少年のように短く、ぷっつりと顎のラインで切りそろえられていた。化粧も素顔と思えるほどに薄い。着ている服も質素なものだった。
しかし、そのせいで彼女の姿はあの日よりも却ってずっと若々しいものに見受けられた。
「知り合いなのか?」
「さあね」
驚くベックに、ヒルダは曖昧に笑って見せた。
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「何者なんだ、君は―――」
ベックの居る建物を後にすると、夜の街をハインリヒとヒルダは並んで歩き始めた。
「ベックとは古い知り合いよ。―――彼の女、だったこともあるかしら…」
空に浮かぶ月を眺めながら、ヒルダは涼しい顔で言った。
「じゃあ、このあいだの店で一緒にいたジイサンは?」
「私が、あのひとの娘だって言ったら、信じてくれる―――?」
信じられるものか。と、ハインリヒは胸のうちで呟いた。
「信じられなかったのは私の方よ」
ヒルダが言った。
「どうして、あんた、私を一緒に連れてゆくことを引き受けたの?ベックに、それだけの恩があるから?」
「そんなところだ」
吐き捨てるようにハインリヒは彼女に言った。
仏頂面のハインリヒを小柄なヒルダは見上げると、ふと何かを思いついたように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねえ」
「何だ」
「ちょっと、止まってよ」
思いがけず、ハインリヒが足を止めたそのとき。
一歩前にいたヒルダが踵を返すと、そのまま足を止めて背伸びすると、ハインリヒに唇をかさねた。
「御礼よ。私を一緒に連れていってくれることへの―――…」
ヒルダの唇からは、砂糖菓子のようにひどく甘い味がした。
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そして、今。
数日後に計画を前にして。
ハインリヒの部屋のベッドの上で、ヒルダは安らかな寝息をたてている。
窓から差し込む月の光が、彼女の思いがけず華奢な裸身を青白く照らしていた。
彼女の傍らで、半身を起こして、ハインリヒは彼女の姿を見つめていた。
ふと目をやると、二人が眠る前にしこたま飲んだ酒の空瓶が、床の上に幾つも転がっていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
眠る彼女の顔を見つめながらハインリヒは思った。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ベックの店で再会したあの晩、気がつけば押し切られるようなかたちで、ヒルダはこの部屋に転がり込んできた。それから今日に至るまで、彼女はここに入り浸っている。
帰るところはないと彼女は言った。
訳あって、身を隠さなくてはならない。だから、この街を出てゆくのだと―――。
それ以上のことを、ハインリヒは彼女に問いただせなかった。
後ろ暗いのは、自分も同じことだったのだから。
ハインリヒがすこし聞いてまわっただけでも、ヒルダと関係した男の数は相当なものだった。あれはとんでもない女だ。気をつけろと、皆口を揃えて言った。中には妻と別れる羽目になったり、財産を身ぐるみ剥がれた者もいるという。
月の光の中で、少年のような髪のヒルダの寝顔はとてもあどけなく見えた。
だが、噂に聞いたところによれば、彼女の齢は今年三十になったハインリヒよりも幾つか上とのことだった。
あいつは化けるからな。気をつけろ。
彼女の被害に遭った男たちは口を揃えて言った。
「…ヒルダ」
眠ったままの彼女に、ハインリヒは呼びかけた。
「計画が決まった。オレはサーカスの猛獣運びをよそおって、検問を抜ける」
言葉を続けても、ヒルダが目覚める気配はなかった。
「やはり君の分の通行証は都合がつかないそうだ。悪いが、君はオレが運ぶライオンの檻の中に入って隠れてもらう」
「……」
「コンテナと檻とのあいだに、いくらか隙間ができる。人が一人隠れるには十分な広さだ。振動はきついが、そのくらいは我慢してもらう」
ハインリヒがそう告げたそのとき、眠ったままのヒルダがはげしくかぶりを振った。
「コンテナの隙間は嫌なのか?」
ヒルダはこくりと頷いた。
しかし、おそらくはハインリヒの言葉など、彼女の耳に届いてはいないのだろう。
彼女は夢を見ているかのようで、薄く微笑んでいた。
「…ならば、あとは檻の中しかないな。劇団員の知り合いに頼んで、何か猛獣のぬいぐるみでも借りてくるか…。君はその中にでも入っているんだな」
すると、ヒルダはまたこくりと頷いた。
「わかった。ぬいぐるみを借りてきてやる。何がいいか…。そうだ、雌ライオンを借りてやろう。君にぴったりだ」
揶揄するつもりでハインリヒはそう言ったが、ヒルダはまたこっくりと頷いた。
「決まりだ!雌ライオンだ!君にぴったりだ!」
ヒルダはまだ目覚めない。何が可笑しいのか、目を閉じたままで彼女は笑っていた。
目覚めたとき、彼女はハインリヒが今言ったことなど、これっぽちも覚えてはいないだろう。
ハインリヒは、雌ライオンのぬいぐるみを着たヒルダの姿を想像してみた。
あの店で初めて会ったときの高慢な態度の彼女に、それはとてもよく似合っているように思われた。
本当に自分が雌ライオンのぬいぐるみを用意したら、彼女はいったい、どんな顔をすることだろう―――?
そのとき、窓から入った風が、ふわりとヒルダの短い髪を揺らした。
思いがけず美しいその顔に、ハインリヒはしばし見惚れた。
―――オレはいったいどうしちまったっていうんだ…。
ハインリヒはそっと彼女に顔を近づけると、ヒルダの唇に自ら口付けをした。
私と一緒にならない―――?と、ヒルダはハインリヒに言った。
まだ、知り合ってまもないというのに。
それは所帯を持つということかとハインリヒが聞くと、ヒルダは「そうよ」と即答した。
向こうに着いた後で、その方が何かと都合がいいかと思ったから。
ヒルダは、彼に悪びれずにそう言った。
冗談じゃない。オレの役目は君を送り届けるまでだ。その後はただの他人でしかない。
―――そのつもりだったのに…。
唇を離しながら、彼女から伝わった熱が冷めてゆく途中に、ハインリヒは己の気持ちに途惑っていた。
―――まったく、嫌な女だ。君は…。
ハインリヒの中で、ヒルダの存在は日増しに大きくなってゆく。
彼らがともに壁を越えることになる、それは数日前の出来事だった。
the Tears of the Steel の 森本様 からいただきました。
以前、 Blog で「ヒルダさんって、たぶん素敵な人だったんだろうけど、ひょっとして、ひょっとして、嫌な女だった可能性はないでしょうかねえ」というようなことをお話していたことがあったのですが、そしたらば、なんと、森本さんが本当に「ちょっと嫌なヒルダさん話」を書いてしまわれたのでした。すごいです。いや、森本さんなら、ひょっとして書いちゃうかもと実は思ってましたが(笑)。それにしても、嫌なヒルダさんのみならず、ライオンの着ぐるみまで無理なくおさめてしまった手腕はお見事です。色々なお題に挑戦してらっしゃる森本さんですが、本当に、この方はどんな無理難題を出しても書いてしまいかねないわーと改めて感心した次第であります。
森本さんのお宅と ヒルダさんお姉さん同盟(ナイスですな) に掲載されている作品ですが、記念にうちにもいただいてしまいました。そして、そして、森本さん宅では「パラレル・嫌な女」が続いています。先に行く程、切なくなってきます(泣)。
森本さん、どうもありがとうございました。私も、このヒルダさん好きですよ(ハインリヒも)!