起筆と終筆 ということ
 取材させてもらった篆刻家が、筆法のひとつとしてこの言葉を使っていた。
 書には起筆と終筆があるのだと。

 コンサートに行く、当たり前のように「アンコール」がある。
 アンコールとは、そもそも、全ての芸が終了した後、『とてもよかったから、もう少し、見せてくれないか』という客のおねだりだと思う。

 中には、全くアンコールに応じないアーティストもいる。
 それは決して、サービス精神に欠け、出し惜しみしているのではなく、「私は、余力を残さず、全てを出し切った」というこだわりなのだと理解したい。

 つまり、アンコールがないのは『起筆から終筆』で仕上げられた『完成品』なのだ。

 回りくどい言い方をしてしまった。

 今年の長崎くんちを見ていて思ったことがある。
 この終筆がよく分からない町が幾つかあったことだ。

 くれぐれも誤解なきよう言っておくが、決して踊りが拙かったとか、言っているのではない。6ヶ町全てが、良く練習を積んだ、素晴らしい奉納踊りであったと思う。

ただ――、
 演じる側も、見る側も、「もってこーい」あるいは「所望」というアンコールまでも含めて『完成品』にしてしまっているのではないかと感じるのです。
 つまり、当たり前のように"アンコール」がある"のを前提にしてはいないだろうか、と。

 確かに、稽古中、時間配分も熟慮した上で「もってこーい」に何度応じ、『最後は、これで締めよう』という演出を、事前に考慮していることは知っているし、理解できます。

 でも、「アンコール」は「アンコール」。
 その前に、キチンと、『これで終わり、全て出し切った』、という瞬間が欲しいと感じるのですね。
 つまり「終筆」の場面では、シャギリが入り、紋付組は席を立つ。粛々と次の踊り町にバトンを渡す準備に入る。
 それが、シャギリは入らない、紋付組はどかっと腰を下ろし続けている、というのでは、「ここで、もってこーいの声がかかって…」という予定調和的なものが見え隠れして、あまり気持ちの良いものではないのですね。
 たとえ、最後の”取っておき”があったとしても、「アンコールがなければ、本当にこれで終わるんだ」という潔さがあっても良いではないでしょうか。

 それは見る側も同じこと。
 「何回ぐらい、アンコールに応じるかな」と思いながら、もってこーいの声を上げるのではなく、「何度でも見たい」というのなら、相手が設定しているであろう回数以上に、踊り馬場に引き戻す要求をすればいいのではないか、とも思いますし、逆もまた然り。(去年も書いた通り)

 演じる側も、見る側も、それで随分、緊張感が違ってくるような気がするのですが…。

 一生懸命やっている関係者の皆さん、本当に偉そうに、評論家気取りで言ってすみません。でも、正直に「感想」を言わせてもらいました。