先日の安芸灘を震源とする大地震が発生した時に、私はカミさんの実家である大分にいたのです。
大分の震度は「4」。長崎という大変地震の少ない土地でしか生活したことのない私にとって、初めて体験した『大地震』でした。
しかし、職業病というのでしょうか、アナウンサーの性なんでしょうか、地震の直後、気がつけば、『何秒ほど』『どういう揺れ』で、『どういう状況だったか』、1分ほどのレポートを咄嗟に考えてる自分がいました。無意識のうちに『どう伝えようか』と考えてるんですね。
あまりにも激しい揺れで、娘も鳩が豆鉄砲食らったような顔をしているんだけど、一方で極めて冷静な自分がいたのが不思議でした。
災害の怖さの一面って、『その状況』が『いかに危険か』を過去の経験則でなかなか判断できないところだと思うんです。
ヒトって一度、経験すると、次は危ないと予見できますよね。ヤカンの取っ手を握って「熱いっ!」って感じれば、次に握る時には、それを予想しながら恐る恐る手を出すじゃないですか。
でも、大規模な災害は50年とか100年に一度の発生ですから、生きてるうちにそうそうある訳もなく、「経験則」が殆ど意味をなしません。つまり、相対的な比較ができないんですね。「これは危ない」と判断しずらい。
もし、仮に地震の時、あのまま、震度が「4」ではなく、「6以上」だったとしたら、家屋が倒壊していたかもしれません。命にかかわっていたかも知れません。
今回も、ぐらっと来た時に、私はその状況を想像できたかといえば、難しかった。
私は高校1年の時、長崎大水害を経験しました。ですから、大雨の怖さは身をもって知っています。つまりどれくらいの雨が降ると「ヤバイか」ということを分かっているつもりです。ですから、予見もできる訳です。
ところが、こと地震となると「その怖さ」が実感できないのですね。経験がない。
阪神大震災の例をあげるまでもなく「大地震は危険」なのです。でも、実際の大地震に遭った時、その危険性が予見できない。
それはどんな災害でも言えることではないかと思います。普賢岳の火砕流惨事の時もそうでした。報道関係者に「火砕流は危ない」という意識はあっても、身に迫った危険性がなかなか実感できなったというのは悲しい事実です。
災害とすれ違った時、多くの人が『今考えれば、危なかった』という意識を持つのは、そんな理由があるような気がします。
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