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作者 故 久保田 馨さん 昭和3年、愛知県生まれの久保田さんは昭和27年、24歳の時、父親の仕事の関係で静岡から長崎に移り住みました。。 長崎焼の中原仁斎の工房に弟子入りし、昭和29年、独立。愛宕山の中腹に自宅に小さな工房を構え、両親と兄弟の6人で暮らしはじめます。 広さが2畳という工房で、亡くなるまでの17年間に、約30万体もの素焼きの人形に生命を吹き込み続けました。 |
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| 長崎に移り住んで間もなく、久保田さんは近所の小、中学生を工房に集め、絵や俳句を通して生物への慈しみを教えました。 自由に参加できるこの会は「アリの会」と名付けられ、子供達は夜遅くまで帰ろうとしなかったと言います。 アリの会の当時の連絡ノートの中で久保田さんは、『原水爆が作られている限り人形を作っていく』と、その決意を綴っています。戦争で兄を亡くし、家を焼かれただけに平和を望む気持ちは人一倍でした。 名が売れたあとも、東京の百貨店や、アメリカへの輸出の話などが持ちこまれますが、全て断ります。一体一体手作り。然も、全て姿形の違う人形を大量生産できるはずもありません。久保田さんを知る人は、『彼はどこか、自分が有名になることを避けていたようにも見えた』と言います。 久保田さんは、人形をお金にかえる事を嫌っていました。生活が苦しくとも、人形の値段を驚くほどの安さに抑え、子供でも買いやすい30円という価格で、売られつづけました。 晩年、人形に命を吹き込みつづけた久保田さんは、製作に苦しみ、行き詰まるようになり、昭和45年、急性腹膜炎で亡くなります。 42歳の若さでした。 |
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| このHPの写真は頓珍漢人形設立準備委員会の使用許可を得て転載しました。 | ||