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392ま 【た】 【ま】 【き】 む き 【み】 【や】古墳誰時 2011/4/28-7:38
記事番号391へのコメント
垂仁天皇の珠城宮だといいなー。

昨日のニュースで、すぐ東側に3世紀後半の更に大型建物の柱跡が見つかっ
た由。

391ここは百百ちゃんのおウチだー古墳誰時 2011/4/28-7:23
記事番号389へのコメント
と言わんばかりに2000個もの桃の種がそのご発掘されました。

390秋津遺跡はヤマトタケの殯(もがり)の宮では古墳誰時 2010/11/29-11:37

昨日2010年11月28日(日)、寒風がびゅーびゅー吹きすさぶ中、秋
津遺跡での発掘説明会に行ってまいりました。

現地は奈良盆地の一番南側、御所市の秋津小学校の東南東200mの一帯
で、京奈和自動車道建設前の事前発掘調査地です。

1年前に古墳時代中期の遺跡が出たということで発掘説明会がありました
が、今回は南側の狭い道路を挟んだ連接する広い地域です。



発掘説明会に行った成果:

・東西60m南北70mの長方形の柵(塀)で囲まれた遺跡で、大型建物4
軒、掘立柱建物5軒がある。

・年代は4世紀前半。

・東西・南北の軸は反時計回りに約20度傾いている。

・東西軸の西の先には水越峠(葛城山と金剛山の間の峠)がある。

・東西軸の東の先には、現在、満願寺や秋津鴻池病院がある方の山を向いて
いる。

・1ケ所だけ遺跡の塀の北辺には東向きの門がある。

・南北軸の南の先には大口峠(吉野、五條、紀伊熊野など南方面へ抜ける)
がある。



ヤマトタケの殯(もがり)の宮と考える根拠

・4世紀前半は景行天皇の時代である。

・東西軸の向きが日本列島の東西方向と合っていて、東西の遠征を思わせ
る。

・東の方向は、ヤマトタケの墓と考えられる掖上鑵子塚古墳とそこへ通じる
道がある。

・遺跡の造りがしっかりした大工事になっている。当時の要人。

・東側には国見山がある。

・琴弾原とされる白鳥陵が国見山の手前にある。



389大形建物を含む遺跡の住人古墳誰時 2009/11/16-22:43
記事番号387へのコメント
大形建物を含む遺跡の住人候補については、二名が有力と考えていますが。

8代孝元天皇−−−皇居の可能性なきにしもあらず。

倭迹迹日百襲姫−−−これは卑弥呼決定済。


二者がどのような時期区分で住んだかが超難問ではない宿題。


.



388纒向遺跡第166次調査現地説明会古墳誰時 2009/11/16-10:57
記事番号387へのコメント
平成21年11月15日(日曜日)、現地説明会に行ってきました。

387ホツマ伝は、マキムキ(ま東むき)古墳誰時 2009/11/16-10:47

大形建物は正しく東西一直線上にある。4〜5度の誤差で磁針よりも正確と
のこと。西から東に向って大形になり真東の方角には何かがありそうです
ね。それについて記紀はなにも書いていないのは承知。記紀は纏向で従来
「まきむく」と読みましたが東の意味はありません。

そんなことに触れている文献など誰も知るまい。

ところが有るんだな。ホツマ伝は、記述すべて「マキムキ」で意味「ま東む
き」です。東(キ)、西(ツ)、南(サ)、北(ネ)なので東(キ)です。

(例1)
ホ35017 ニイミヤコ うつすマキムキ
ホ35018 タマキミヤ シハスうむミコ
ホ35019 ホンツワケ あえモノいわず

(例2)
ホ38050 ネシモハヒ マキムキヒシロ
ホ38051 ニヒミヤに かえりいります

(例3)
ホ38391 マキムキの ミヤコにかえる

(例4)
ホ40003 マキムキの ヒシロのコヨミ



今回の一連の発掘によってはじめて解った真東向き、ホツマ伝の「マキム
キ」と一致します。

発掘以前には不明の事柄がちゃんと記載してある。この一事を以ってして
も、ホツマ伝は考古遺物の実年代と肩を並べる古い本物の文献という判断に
なります。記紀以後の偽書説だなんてちゃんちゃら可笑しくって。


また証明してしまいましたね、−ホツマ伝は本物の古文献− 。


.

386【最重要着眼点】古墳誰時 2008/8/19-3:23
記事番号208へのコメント
青木史学(青木慶一「邪馬台の美姫」)の真髄について以下説明します。

魏志倭人伝にある邪馬台国、卑弥呼…のような我が国にとって重要な事柄ならば、記紀を左程いい
加減な文献とは看做さない立場において、記紀のどこかの時代に必ず痕跡が残っているはずである
から、古代史の手がかりとしてまずそれを見つけなければならない。


倭人伝(正始八年、西暦247年)

その八年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏
越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎
し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余
歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更ごも相誅殺し、当時千余人を
殺す。

(1)正始八年(247年)王キが太守に着任した。

(2)倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。

(3)倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

(4)塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれ
を告喩す。

(5)卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

(6)更に男王を立てしも、国中服せず。更ごも相誅殺し、当時千余人を殺す。

(7)また卑弥呼の宗女壹与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。



書紀(崇神十年)

(A)四道将軍の派遣。

(B)倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された。その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇
にいわれるのに、「これは武埴安彦が謀反を企てているしるしであろう。聞くところによると、武
埴安彦の妻吾田媛がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(女性が襟から肩にかけたきれ)
のはしに包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』といって帰ったという。これでことが
分った。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう」と。

(C)彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。その時忌瓮を和珥の武スキ坂の上に据
え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。それ
でその山を名づけて奈良山とよんだ。また奈良山を去って輪韓河に至り、埴安彦と河をはさんで陣
取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その河を挑河とよんだ。今、泉河というのはなまっ
たものである。埴安彦は彦国葺に尋ねて、「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と。答
えて「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから義兵を挙げてお前を討つ
のだ。これは天皇の命令だ」と。そこでそれぞれ先に射ることを争った。武埴安彦がまず彦国葺を
射たが当らなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当って殺された。

(D)その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢
れた。そこを名づけて羽振苑(今の祝園)という。またその兵たちが恐れ逃げるとき、屎が褌より漏
れた。それで甲をぬぎ捨てて逃げた。のがれられないことを知って、地に頭をつけて「我君」(わが
君お許し下さい)といった。ときの人はその甲を脱いだところを伽和羅という。褌から屎が落ちたと
ころを屎褌という。今、樟棄というのはなまったものである。また地に頭をつけて「我君」といっ
たところを「我君」(和伎の地)という。


(E)冬十月一日、群臣に詔して「今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もな
い。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。

(F)倭迹迹日姫命が死んで大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼
は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって
手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。

(G)(十ニ年)天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇(はつくにしらすす
めらみこと)」という。


2−B、3−C、5−F、6−D・E、7−G、こんなに多く対応しています。

武埴安彦の死に関しては、崇神十年九月のことで、特急で帯方郡まで報告しに行ったとして年内に
間に合い、これが正始八年(西暦247年)のことと見なします。

崇神十年 = 正始八年(西暦247)。武埴安彦の国=狗奴国。



魏志倭人伝、日本書紀の訳は岩波文庫本を参考。


385至と到古墳誰時 2008/8/16-22:50

《解字》--- 学研 漢字源

会意兼形声。到は「至+音符刀」。至るは、矢が一線に届くさま。刀は、弓
なりにそったかたな。まっすぐ行き届くのを至といい、弓なりの曲折をへて
届くのを到という。





その説明によると、魏志倭人伝での到と至を以下のように理解できます。
【到】は、(1)狗邪韓国に行くときと、(2)伊都国に行くときに使われ
ています。


(1)従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東【到】其北岸狗邪韓国


区切ります。

従郡至倭、循海岸、水行歴韓国、乍南乍東、【到】其北岸狗邪韓国


訳します。

郡から倭に至るには、海岸に循って、水行で韓国を歴て、乍南乍東、其北岸
狗邪韓国に【到】る。


説明

韓国の西南部海岸を大きく弓なりのコースで狗邪韓国に行きます。【到】の
原義どおり。



(2)東南陸行五百里【到】伊都国

説明

末盧国(唐津市の呼子か唐津港か)から大きく弓なりのコースで伊都国(前
原)に行きます。【到】の原義どおり。



(3)なお至については、対馬国、一大国、末盧国、奴国、不弥国、投馬
国、邪馬台国に行く場合で、ほぼ直線コースです。

投馬国(吉備の玉野市か)については、水行で遠賀川の河口辺りから東へほ
ぼ一直線です。



384私選、代表的な夢のある研究者(敬称略)古墳誰時 2008/8/4-20:9

原田大六(平原遺跡発掘、鏡の研究、畿内説、古代史解法の重要ヒント)

白石太一郎(やる気ある古墳編年)

岡村秀典(鏡の研究)

福永伸哉(鏡の研究)

青木慶一(古代史論、著書:邪馬台の美姫)

吾郷清彦(著書:全訳秀真伝)

鳥居礼(秀真伝研究、偽書説への反論)

他にも多数。なお年代推定がおかしな研究者は全てパスする。

383倭人伝の国名順−−逆さ「の」の字古墳誰時 2008/8/4-20:2
記事番号213へのコメント
青木慶一著「邪馬台の美姫」での国名比定がたいへん良さそうです。(畿内説)

おおよそ「の」の字の逆順です。ごく簡単に説明しますのでメモ用紙に書いてみて下さい。

1.メモ用紙の中央に大きく「の」の字を書く。

2.「の」の書き終りに「狗邪韓国」と記す。

3.「の」の書き始めに「狗奴国」と記す。

4・「の」の真上に「邪馬台国」と記す。

5・「の」の左下に「東北」と記す。

6・紙を上下逆さまにする。これで日本地図と合います。


【ポイント】

魏志倭人伝記載の国名は直列読みである。

友好国の邪馬台国を一万二千余里の圏内、敵対国の「狗奴国」を圏外にする記述法が採られている。




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