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タイトル: 【最重要着眼点】
投稿者 : 古墳誰時
URL   : 未登録
登録時間: 2008/8/19-3:23
青木史学(青木慶一「邪馬台の美姫」)の真髄について以下説明します。

魏志倭人伝にある邪馬台国、卑弥呼…のような我が国にとって重要な事柄ならば、記紀を左程いい
加減な文献とは看做さない立場において、記紀のどこかの時代に必ず痕跡が残っているはずである
から、古代史の手がかりとしてまずそれを見つけなければならない。


倭人伝(正始八年、西暦247年)

その八年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏
越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎
し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余
歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更ごも相誅殺し、当時千余人を
殺す。

(1)正始八年(247年)王キが太守に着任した。

(2)倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。

(3)倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

(4)塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれ
を告喩す。

(5)卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

(6)更に男王を立てしも、国中服せず。更ごも相誅殺し、当時千余人を殺す。

(7)また卑弥呼の宗女壹与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。



書紀(崇神十年)

(A)四道将軍の派遣。

(B)倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された。その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇
にいわれるのに、「これは武埴安彦が謀反を企てているしるしであろう。聞くところによると、武
埴安彦の妻吾田媛がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(女性が襟から肩にかけたきれ)
のはしに包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』といって帰ったという。これでことが
分った。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう」と。

(C)彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。その時忌瓮を和珥の武スキ坂の上に据
え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。それ
でその山を名づけて奈良山とよんだ。また奈良山を去って輪韓河に至り、埴安彦と河をはさんで陣
取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その河を挑河とよんだ。今、泉河というのはなまっ
たものである。埴安彦は彦国葺に尋ねて、「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と。答
えて「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから義兵を挙げてお前を討つ
のだ。これは天皇の命令だ」と。そこでそれぞれ先に射ることを争った。武埴安彦がまず彦国葺を
射たが当らなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当って殺された。

(D)その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢
れた。そこを名づけて羽振苑(今の祝園)という。またその兵たちが恐れ逃げるとき、屎が褌より漏
れた。それで甲をぬぎ捨てて逃げた。のがれられないことを知って、地に頭をつけて「我君」(わが
君お許し下さい)といった。ときの人はその甲を脱いだところを伽和羅という。褌から屎が落ちたと
ころを屎褌という。今、樟棄というのはなまったものである。また地に頭をつけて「我君」といっ
たところを「我君」(和伎の地)という。


(E)冬十月一日、群臣に詔して「今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もな
い。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。

(F)倭迹迹日姫命が死んで大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼
は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって
手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。

(G)(十ニ年)天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇(はつくにしらすす
めらみこと)」という。


2−B、3−C、5−F、6−D・E、7−G、こんなに多く対応しています。

武埴安彦の死に関しては、崇神十年九月のことで、特急で帯方郡まで報告しに行ったとして年内に
間に合い、これが正始八年(西暦247年)のことと見なします。

崇神十年 = 正始八年(西暦247)。武埴安彦の国=狗奴国。



魏志倭人伝、日本書紀の訳は岩波文庫本を参考。



親記事コメント
狗古智卑狗は武埴安彦-投稿者:古墳誰時 なし

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