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◇-青木慶一著『邪馬台の美姫』ついに念願の古書発見:古墳誰時2001/2/25-2:10#204
 └今日に通用する青木史学の神髄:古墳誰時2001/3/1-5:7#205
  ├邪馬台国問題は人名から解読:古墳誰時2001/3/1-5:9#206
  ├諸国名の接壌式解読法:古墳誰時2001/3/1-6:24#207
  │└諸国名の接壌式解読法(続き):古墳誰時2001/3/4-21:8#213
  │ └倭人伝の国名順−−逆さ「の」の字:古墳誰時2008/8/4-20:2#383
  ├狗古智卑狗は武埴安彦:古墳誰時2001/3/1-20:54#208
  │└【最重要着眼点】:古墳誰時2008/8/19-3:23#386
  ├崇神元年は西暦238年(景初二年):古墳誰時2001/3/1-23:21#209
  ├卑弥呼は倭迹迹日百襲姫:古墳誰時2001/3/3-7:49#210
  ├台与は豊鍬入姫:古墳誰時2001/3/3-18:25#211
  ├伊支馬は垂仁天皇:古墳誰時2001/3/4-8:13#212
  ├全て国内での出来事:古墳誰時2001/3/5-1:56#214
  └「倭国王帥升等」は「孝安天皇」:古墳誰時2001/3/10-7:56#215


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204青木慶一著『邪馬台の美姫』ついに念願の古書発見古墳誰時 E-mail URL2001/2/25-2:10


青木慶一著『邪馬台の美姫−日本古代史測定論』(毎日新聞社、S46年)

 ホツマ伝がまだ殆ど知られていなかった頃の魏志倭人伝、記紀、弥生遺跡などを
中心とした古代史論の名著だと思います。今となっては結論をそのまま受け入れる
ことはできませんが、自分の古代史論(古代史像)はこの書がベースになっていま
す。ホツマ伝を読むようになり訳あって処分してしまいましたが、捜していたとこ
ろWebで北海道の北天堂書店に在庫していることが分かり注文しました。到着し
だい読み直してHPの『魏志倭人伝の位置論?』等を更新します。

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205今日に通用する青木史学の神髄古墳誰時 E-mail URL2001/3/1-5:7
記事番号204へのコメント

 一度は手放してしまいましたが、再び古書を手に入れることが出来、早速ページをめく
りました。

青木慶一著「邪馬台の美姫−日本古代史測定論」(毎日新聞社、S46年)

 書中で「青木史学」とあり、全てではないが今日に十分通用する個所が多いため、その
青木史学の神髄を拾ってみたいところです。


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206邪馬台国問題は人名から解読古墳誰時 E-mail URL2001/3/1-5:9
記事番号205へのコメント

 魏志倭人伝には倭国からの使者の人名があり、これをまず手掛りとして記紀と照合することによ
り、三世紀中葉の崇神天皇時代の出来事が魏国の側で記録されたものと判定。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
感想:

 「記紀と照合」の方法論および、「三世紀中葉の崇神天皇時代の出来事」という結論は、まった
くその通りで正しい。但し人物比定では、国片姫となっている難升米は彦太忍信命が正しいと考え
られる等で異論が多い。その後わたしは人物比定を正確に行うためには、古墳の被葬者を解明する
ことと、秀真伝の導入が必要であると考えました。


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207諸国名の接壌式解読法古墳誰時 E-mail URL2001/3/1-6:24
記事番号205へのコメント

 魏志倭人伝記載の諸国名は、お国めぐり(観光案内)のような接壌(せつじょう)式解読法で地続き
に解読しつつ考古学的証憑を加える。

(以下抜粋)
投馬国:岡山県倉敷市玉島/岡山県玉野市玉
邪馬台国:大和
1.斯馬国:志摩国
3.伊邪国:伊賀国
5.弥奴国:美濃国
8.姐奴国:茅野市
9.対蘇国:木曾
10.蘇奴国:信濃国
11.呼邑国:甲斐国
12.華奴蘇奴国:武蔵国金鑽神社中心地方
13.鬼国:上野国
15.鬼奴国:「毛野」国
16.邪馬国:耶麻国

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感想:上の抜粋個所だけみても高い納得性がありそうです。


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213諸国名の接壌式解読法(続き)古墳誰時 E-mail URL2001/3/4-21:8
記事番号207へのコメント

>16.邪馬国:耶麻国

 福島県西部の邪馬国(耶麻国)まで来ましたが、ここからは日本海側に出ます。

17.躬臣(クシ)国:新潟県古志郡
18.巴利(ハリ)国:新潟県刈羽郡
19.支惟(シイ)国:能登半島(射水、氷見、羽咋、鳳至、珠洲5郡)
20.烏奴(ウヌ)国:石川県江沼郡
21.奴(ヌ)国:石川県能美郡

>其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。(魏志倭人伝)
>大彦命を以って北陸(くぬがのみち)に遣す。(崇神紀十年九月)

 狗奴(クヌ)国は北陸道の福井県方面である。

>女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。(後漢書倭伝)

 兵庫県北部(但馬国)の海岸から東の方に狗奴国がある。

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感想:

 其の余の傍国21ケ国を経て最後に北陸の奴国、狗奴国に辿り着くという迫真の説が展開されています。


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383倭人伝の国名順−−逆さ「の」の字古墳誰時 2008/8/4-20:2
記事番号213へのコメント
青木慶一著「邪馬台の美姫」での国名比定がたいへん良さそうです。(畿内説)

おおよそ「の」の字の逆順です。ごく簡単に説明しますのでメモ用紙に書いてみて下さい。

1.メモ用紙の中央に大きく「の」の字を書く。

2.「の」の書き終りに「狗邪韓国」と記す。

3.「の」の書き始めに「狗奴国」と記す。

4・「の」の真上に「邪馬台国」と記す。

5・「の」の左下に「東北」と記す。

6・紙を上下逆さまにする。これで日本地図と合います。


【ポイント】

魏志倭人伝記載の国名は直列読みである。

友好国の邪馬台国を一万二千余里の圏内、敵対国の「狗奴国」を圏外にする記述法が採られている。



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208狗古智卑狗は武埴安彦古墳誰時 E-mail URL2001/3/1-20:54
記事番号205へのコメント

 狗奴国男王の「狗古智卑狗」は開化天皇の異母弟の「武埴安彦」である。「菊池彦」説は悪説で
ある。魏略では「拘右智卑狗」で、別の汲古閣本では「拘右制卑狗」となっていて、「ハニヤスヒ
コ」の解読が順当である。卑弥弓呼も「ハニヤスヒコ」である。

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感想:

 魏志倭人伝正始八年、倭の女王卑弥呼は狗奴国男王の卑弥弓呼と素から不和で、たがいに攻撃す
る状を説いた。ここを崇神紀10年の武埴安彦の反乱とみて全ての辻褄は合っている。

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386【最重要着眼点】古墳誰時 2008/8/19-3:23
記事番号208へのコメント
青木史学(青木慶一「邪馬台の美姫」)の真髄について以下説明します。

魏志倭人伝にある邪馬台国、卑弥呼…のような我が国にとって重要な事柄ならば、記紀を左程いい
加減な文献とは看做さない立場において、記紀のどこかの時代に必ず痕跡が残っているはずである
から、古代史の手がかりとしてまずそれを見つけなければならない。


倭人伝(正始八年、西暦247年)

その八年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏
越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎
し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余
歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更ごも相誅殺し、当時千余人を
殺す。

(1)正始八年(247年)王キが太守に着任した。

(2)倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。

(3)倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

(4)塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれ
を告喩す。

(5)卑弥呼以に死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。

(6)更に男王を立てしも、国中服せず。更ごも相誅殺し、当時千余人を殺す。

(7)また卑弥呼の宗女壹与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。



書紀(崇神十年)

(A)四道将軍の派遣。

(B)倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された。その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇
にいわれるのに、「これは武埴安彦が謀反を企てているしるしであろう。聞くところによると、武
埴安彦の妻吾田媛がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(女性が襟から肩にかけたきれ)
のはしに包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』といって帰ったという。これでことが
分った。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう」と。

(C)彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。その時忌瓮を和珥の武スキ坂の上に据
え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。それ
でその山を名づけて奈良山とよんだ。また奈良山を去って輪韓河に至り、埴安彦と河をはさんで陣
取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その河を挑河とよんだ。今、泉河というのはなまっ
たものである。埴安彦は彦国葺に尋ねて、「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と。答
えて「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから義兵を挙げてお前を討つ
のだ。これは天皇の命令だ」と。そこでそれぞれ先に射ることを争った。武埴安彦がまず彦国葺を
射たが当らなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当って殺された。

(D)その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢
れた。そこを名づけて羽振苑(今の祝園)という。またその兵たちが恐れ逃げるとき、屎が褌より漏
れた。それで甲をぬぎ捨てて逃げた。のがれられないことを知って、地に頭をつけて「我君」(わが
君お許し下さい)といった。ときの人はその甲を脱いだところを伽和羅という。褌から屎が落ちたと
ころを屎褌という。今、樟棄というのはなまったものである。また地に頭をつけて「我君」といっ
たところを「我君」(和伎の地)という。


(E)冬十月一日、群臣に詔して「今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もな
い。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。

(F)倭迹迹日姫命が死んで大市に葬った。ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼
は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が連なって
手渡しにして運んだ。ときの人は歌っていった。

(G)(十ニ年)天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇(はつくにしらすす
めらみこと)」という。


2−B、3−C、5−F、6−D・E、7−G、こんなに多く対応しています。

武埴安彦の死に関しては、崇神十年九月のことで、特急で帯方郡まで報告しに行ったとして年内に
間に合い、これが正始八年(西暦247年)のことと見なします。

崇神十年 = 正始八年(西暦247)。武埴安彦の国=狗奴国。



魏志倭人伝、日本書紀の訳は岩波文庫本を参考。


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209崇神元年は西暦238年(景初二年)古墳誰時 E-mail URL2001/3/1-23:21
記事番号205へのコメント

 武埴安彦の反乱が崇神天皇10年に決戦として、魏の正始8年(247年)に該当し、大きな引き延ば
しの形跡もないとみて、これから崇神元年は西暦238年(景初二年)である。

−−−−−−−−−−−−−−−−−
感想:

 正確な年代観だと思う。大陸の文献と対応するような崇神天皇元年の頃の記事がないのが残念だ
が、景初三年六月の誤まりとされている景初二年六月の遣使(目的は崇神即位の連絡と即位式への
招待)は本当になかったのだろうか。またこの辺りの年代については、実直な大物主が記録して正
しいのではないだろうか。

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210卑弥呼は倭迹迹日百襲姫古墳誰時 E-mail URL2001/3/3-7:49
記事番号205へのコメント

 卑弥呼は神功皇后でないことは確実である。

・ 鬼道に事え。

・ 年すでに長大なるも夫婿なし。

・ 大いに冢を作る。

・ 宗女台与年十三なるを立てて。

 などの記事から倭迹迹日百襲姫と判定する。大神神社、信州の諏訪神社、武州児玉郡の金鑽神社
などは御神体のない三社であり、三輪山から大神神社の辺りは高度な統一的な神域だった。

・二上山から石を大量に運んで「箸墓」を作る日本書紀の大工事の記事。

・魏志倭人伝の記事、「卑弥呼すでに死す。大いに冢を作る。径百余歩。殉葬する者、奴婢百余
人。」

・北史の記事、「正始中、卑弥呼死す。」

・魏志倭人伝正始八年(247)の「狗奴国の男王卑弥弓呼(=武埴安彦)」と紛争中の記事。

・後漢書倭伝、「桓、霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし、一女子有り、名を卑
弥呼と曰う。年長じて嫁せず、鬼道の道に事え、能く妖を以って衆を惑わす。是に於て、共に立て
て王と為す。云々。」

 時代も年齢も日中両国の古代文献がぴったり符合していて何も不合理はない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
感想:

 ごもっともの一言。だいたい箸墓古墳の築造年代などは三十年前のこの本を読んで決めるべきで
ある。今だに三世紀後半壱与の墓などとはなんじゃらほい。「箸墓古墳」は地名「箸中」にある
が、これは「ハシハカ」→「ハシナカ」と変化したものである。

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211台与は豊鍬入姫古墳誰時 E-mail URL2001/3/3-18:25
記事番号205へのコメント

 卑弥呼の後継である宗女の台与とは、崇神天皇皇女の豊鍬入姫である。

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感想:

 もっともな説であり全ての辻褄が合っている。豊鍬入姫は、天照大神の祀り方の作法を倭迹迹日
百襲姫に教えられたので宗女と書かれたのだと思う。その場所は国津神社が有力で檜原神社もあり
えるか。国津神社裏のホケノ山古墳が豊鍬入姫の墓であるとの伝承は、年代も合わず誤まりだが、
国津神社と豊鍬入姫の関わりを示している可能性が高い。

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212伊支馬は垂仁天皇古墳誰時 E-mail URL2001/3/4-8:13
記事番号205へのコメント

 該当者を列記し崇神天皇紀10年の時代に共存可能。

難升米:国片姫(くにかたひめ)
伊声耆掖邪狗:伊邪能真若王(いざのまわかのみこ)
都市牛利:平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)
壱与:豊鍬入姫(とよすきいりひめ)
卑弥呼:倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)
伊支馬:伊玖米入日子伊沙知(いくめいりひこいさち)
弥馬升:御真津姫
彌馬獲支:水穂之真若王(みずほのまわかのみこ)
奴佳[革是]:曙立王(あけたつのみこ)
拘右制卑狗:武埴安彦(たけはにやすひこ)
載斯烏越:讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
感想:

 魏志倭人伝にはつぎの記載があります。

 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰
奴佳[革是]、可七萬餘戸、

 邪馬台国の四人のうち、伊支馬は伊玖米入日子伊沙知(いくめいりひこいさち、垂仁天皇)で正解
と考えています。垂仁天皇は早くても250年頃の生れなので、上の記載は崇神天皇10年(247)では
なくて270年よりも後のことです。
 
 まとめとして、つぎの重要人物が正解であり、他は疑問があります。

卑弥呼:倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)
壱与:豊鍬入姫(とよすきいりひめ)
伊支馬:伊玖米入日子伊沙知(いくめいりひこいさち、垂仁天皇)
拘右制卑狗:武埴安彦(たけはにやすひこ)
(弥馬升:御真津姫)

(現在、自分の考えているところ)
難升米:彦太忍信
伊声耆掖邪狗:彦国葺
都市牛利:久志宇賀主
台与:豊鍬入姫
卑弥呼:倭迹々日百襲姫
伊支馬:垂仁天皇
彌馬升:日子坐(または御真津姫)
彌馬獲支:御間城姫
奴佳[革是]:武渟川別
狗古智卑狗:武埴安彦
載斯烏越:伊賀色雄

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214全て国内での出来事古墳誰時 E-mail URL2001/3/5-1:56
記事番号205へのコメント

 なにかと外国と結び付けたがる人が多いが、全ては国内での出来事である。

1.天孫降臨は高天原(滋賀県野洲)から九州への下り列車。

2.神武東征は九州から中央への上り列車。

2.騎馬民族征服王朝説は成立しない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
感想:

 同意見。ただし、高天原の場所等は秀真伝にあるので今後の課題として解読してみたい。

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215「倭国王帥升等」は「孝安天皇」古墳誰時 E-mail URL2001/3/10-7:56
記事番号205へのコメント

>安帝永初元年(107年)、倭國王帥升等、獻生口百六十人願請見 (後漢書倭伝)

 この「倭国王帥升等」は、「ヤマトクニオシヒト(第六代孝安天皇)」である。「倭国王帥升等」
は、種々の表記があるが、「升等」は「ヒト」で全体を表音表意混合文とみる。

 (紀)第六代孝安帝の即位は「太歳己丑(ほしつちのとうし)」であり、107年の前で最も近い89年
となる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
感想:

 倭国王帥升等については、第六代孝安天皇で正しいと思っています。わたしはこの本をもとにし
て長年考えてきましたが、後漢書倭伝の安帝永初元年(107年)の記事は、孝安天皇と同一人で天皇
になるずっと以前の若い頃であったという結論になりました。大和で生まれた卑弥呼(倭迹迹日百
襲姫)ですが祖父は、若い頃は奴国の王で晩年は大和に移って第六代孝安天皇になったというもの
です。孝安天皇の即位時期については、2世紀中頃でないとどうしても古代史全体の年代が合いま
せん。


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