William Merrell Voriesウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)


W.M.ヴォーリズ肖像
写真協力:ヴォーリズ記念館/ヴォーリズ委員会
William Merrell Voriesウィリアム・メレル・ヴォーリズ
William Merrell Voriesウィリアム・メレル・ヴォーリズ
William Merrell Voriesウィリアム・メレル・ヴォーリズ
William Merrell Voriesウィリアム・メレル・ヴォーリズ
William Merrell Voriesウィリアム・メレル・ヴォーリズ


■ 建築作品紹介


 ++ 略 歴 ++

1880(明治13年)10.28アメリカ・カンザス州レブンワースで生まれる
1900(明治33年) イースト・デンバー高校卒業
コロラド大学入学
1902(明治35年) トロントで開催された「海外伝道学生奉仕団」の大会に参加
テイラー女史の講演に感銘を受け、建築家を目指すのを辞め外国伝道へ進む事を決意
1904(明治37年)コロラド大学卒業
1905(明治38年)1.29滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として来日
1907(明治40年) 英語教師解任
近江ミッションを設立
1910(明治43年) 一時帰米後レスター・チェーピン(建築家)と共に帰国
吉田悦蔵(商業学校卒業生)と3人でヴォーリズ合名会社設立
1918(大正7年)近江療養院(現ヴォーリズ記念病院)開設
1919(大正8年)一柳満喜子(一柳末徳子爵の三女)と結婚
1920(大正9年) ヴォーリズ合名会社を解散
ヴォーリズ建築事務所及び近江セールズ(株)設立
メンソレータム(現在のメンターム)輸入販売を開始
1931(昭和6年)ヴォーリズ邸(現ヴォーリズ記念館)竣工
1934(昭和9年)近江ミッションを近江兄弟社と改称
1940(昭和15年)八幡商業高校本館・講堂・体育館竣工
1941(昭和16年) 日本国籍を取得し一柳米来留と改名
ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称
(財)近江兄弟社設立
1942(昭和17年)軽井沢へ疎開
1944(昭和19年) 一柳建築事務所解散
(株)近江兄弟社設立
1945(昭和20年) 終戦
軽井沢より近江八幡へ戻る
マッカーサー元帥と近衛文麿元首相の会談の仲介を依頼される
1946(昭和21年)近江兄弟社に建築部が復活
1951(昭和26年) 学校法人近江兄弟社学園誕生
ヴォーリズが学園の理事長に就任
1954(昭和29年)藍綬褒賞受賞(社会事業への功績)
1957(昭和32年)クモ膜下出血で倒れ、療養生活が始まる
1958(昭和33年)近江八幡市名誉市民1号に選ばれる
1961(昭和36年) 黄綬褒賞受賞(建築界への功績)
ヴォーリズに指導を受けた技師らが活齬ア社ヴォーリズ建築事務所を設立
1964(昭和39年)5.7 永眠
遺骨は近江八幡市の恒春園に満喜子夫人や両親と共に眠る


++ W.M.ヴォーリズについて++

1. 来日するまでのヴォーリズ
 W.M.ヴォーリズの人物像を一言で表すのはとても難しいです。
 「建築家」と言ってしまえば、確かにその通りで日本中に1600にものぼる作品を残しています。
 しかし、建築家としての顔もほんの一面で「メンソレータム」の輸入販売を行った実業家でもあり、病院や学校を設立し社会に貢献した人物でもあります。
 音楽を愛し、ハモンドオルガンを日本に初めて輸入したものヴォーリズですし同志社大学のカレッジソングの作詞者でもあるのです。
 一見、なんの繋がりも見いだせない様々な活動を繋ぐ糸がひとつあります。
 それは、「キリスト教の伝道」というヴォーリズにとって生涯変わることのない目的だったと思います。
 ヴォーリズが残した数多くの功績は、ヴォーリズ個人の利益や欲求の為ではなくキリスト教の伝道をキーワードに広がったものでした。

 ヴォーリズはコロラド大学在学中に建築家を志し、マサチューセッツ工科大学へ進むことを考えていましたが、海外伝道学生奉仕団の大会に参加した時に出逢ったテイラー女史の講演に感銘を受け、外国伝道へ進む事を決意しました。ですから、大学では専門的な建築の勉強はしていません。
 海外伝道学生奉仕団が何かというと、当時アメリカのクリスチャン大学生の間では、キリスト教の伝道活動に身を捧げ海外へ宣教活動を希望する者が多く、この団体もそういった学生たちの為に、北米YMCAが中心となって組織されたものだったようです。
 大学を卒業後、ヴォーリズの希望通り外国伝道へ行くことが決まります。
 日本の公立学校が英語教師を求めていることをYMCAを通じて知り、ヴォーリズが赴任することになったのです。
 1905(明治38)年、ヴォーリズは「チャイナ号」で19日間の船旅をして横浜港へ到着します。24歳の時でした。
 東京のYMCAで赴任先が近江八幡という仏教の勢力が強く、キリスト教の伝道が難しい土地だと知らされたそうです。
 都内に2日滞在したのち、2月2日に近江八幡へ赴きました。



2. 建築家・ヴォーリズが誕生するまで
 ヴォーリズが英語教師として着任したのは、滋賀県立八幡商業学校です。
 現在は滋賀県立八幡商業高等学校と言い、昭和13年の建て替え時にはヴォーリズが設計を担当しています。
 ここで英語教師をしながら、授業終了後には自宅でバイブルクラスを開きました。
 バイブルクラスはヴォーリズの人柄が評判になり、多くの生徒が集まりました。また、多くの生徒がヴォーリズに影響を受け洗礼を希望しました。
 しかし、年度が変わり仏教に熱心な校長が着任すると、ヴォーリズのバイブルクラスに難色を示すようになります。
 結局、ヴォーリズはわずか2年足らずで英語教師を解任されてしまうのです。
 それでも諦めず、日本に留まり伝道活動を続けたのがヴォーリズのスゴイところだと思います。
 近江八幡のYMCA会館に寝泊まりしながら、八幡商業学校の卒業生である吉田悦蔵とともに活動を続けていきました。
 「近江ミッション」のはじまりです。

 1910(明治43)年には、一旦帰国してアメリカ人建築家レスター・チェーピンと共に近江八幡へ戻ってきて吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」を設立します。
 ヴォーリズの設計した多くの建物は、現在でも耐震性に問題がないものが多く残っています。
 レスター・チェーピンが構造的な部分でヴォーリズの設計に大きく影響を与えたのではないかと言われています。
 当時は現在のように建築士制度が確定していなかったので、吉田をはじめ多くのヴォーリズの教え子たちはヴォーリズとチェーピンの元で建築の勉強をしました。
 後に設立された「ヴォーリズ建築事務所」では、そんな八幡商業学校の卒業生たちも多く働いていました。

 ヴォーリズはキリスト教の伝道を目的として、来日しました。
 伝道の活動を行うための資金を作るための事業として、ヴォーリズ合名会社を作り元々興味のあった建築への道を歩みはじめます。
 その多くは、キリスト教に関する施設だったりミッション系の学校の校舎や礼拝堂です。
 ヴォーリズは、近江八幡を愛すると同時に軽井沢を愛し毎年夏は軽井沢を訪れています。
 ヴォーリズ設計事務所も夏は軽井沢に活動の場を移していたほどでした。
 当時、軽井沢は多くの外国人が避暑のため訪れては集い、交流していたようです。
 そういった交流の中で、ヴォーリズに設計を依頼するといったことも少なくありませんでした。ヴォーリズはその場ですらすらとイメージを描き依頼者に見せては、事務所で正式な図面を起こして、形にするという作業が多く行われました。
 その結果、1600以上という多くの建物が日本各地に設計されるようになったのです。



3. ヴォーリズの医療活動
 ヴォーリズが設立した(株)近江兄弟社の前身、近江セールズ(株)では建築とはまったく異なる活動を行っていました。
 ヴォーリズが日本で伝道活動をしていく中、その活動を支えるため当時アメリカの家庭常備薬の人気商品だった「メンソレータム」の発明者A.A.ハイド氏がメンソレータムの日本での販売権をヴォーリズに譲渡してくれました。
 A.Aハイド氏は敬虔なクリスチャンでした。メンソレータムの販売で成功する前は多額の献金をする約束がありましたが事業に失敗して献金ができなくなりました。
 その時、ハイド氏は自分の家屋を売り払い献金に充てたといいます。
 そんなハイド氏の経験からか、極東の地で伝道キリスト教の伝道に苦慮していたヴォーリズに対しメンソレータムの販売権を無償で提供してくれました。
 このことにより、近江セールズ(株)では独占的にメンソレータムの販売を日本で行い、日本でも爆発的人気商品になります。
 ハイド氏は、ヴォーリズの善き理解者で生涯ヴォーリズの後援者として支えてくれました。
 後に、近江兄弟社はメンソレータムのヒットで製薬会社として有名になりますが、ヴォーリズ没後の1974(昭和49)年に経営状況が悪化し、現在の「メンソレータム」の商標は他の製薬会社へ売却し、現在近江兄弟社では「メンターム」として販売しています。

 ヴォーリズは1918(大正7)年に近江療養院を作りました。
 現在はヴォーリズ記念病院という大きな総合病院になっていますが、開院当初の目的は結核療養所(サナトリウム)でした。
 建物の設計はもちろんヴォーリズが行っていますが、建設するための資金はアメリカ人のミス・ツッカーの5,000ドルの寄附金がもとになっているそうです。
 当時、結核は死につながる重たい病気でした。
 もともとヴォーリズは多くの人のために、療養院を作ることを考えていたようですが近江療養院を作ったのには大きな理由がありました。
 ヴォーリズ設計事務所で働いていた、遠藤観隆が肺結核のため亡くなりヴォーリズは非常に悲しんだそうです。
 このことが、大きなきっかけになりました。



4. 結婚そして、日本人として生きる
 ヴォーリズは38歳のとき一柳満喜子と結婚し池田町の洋館で新婚生活をスタートしています。
 ふたりの結婚式はヴォーリズが設計し、現在でも大切に使用されている東京の明治学院大学内のチャペルで行われました。
 満喜子夫人の父、一柳末徳子爵は慶応大学で学び外国人教師に師事したこともあることから当時としては珍しいことだと思いますが、2人のお子さんをキリスト教主義の学校へ入学させた人物でした。
 また、満喜子夫人は長くアメリカに留学していたことから英語も堪能だったようです。

 教育活動に熱心だったのは、ヴォーリズよりも満喜子夫人だったようです。
 そもそも、近江兄弟社学園の基礎となったのはヴォーリズが設立した近江ミッションの婦人活動でした。
 そこで、満喜子夫人とヴォーリズの母ジュリアも一緒に英会話や料理教室、ピアノなど教えていたそうです。
 そんな中で、幼児教育が専門だった満喜子夫人が本格的保育を行うべく「清友園」を池田町で開始しました。
 その10年後、A.A.ハイド氏夫人の寄附により現在の近江兄弟社学園の地にヴォーリズ設計の園舎が作られました。
 1937(昭和12)年にはかのヘレン・ケラー女史が来校したそうで、ヴォーリズの人柄と人脈の広さをうかがうことができます。
 
 ヴォーリズは1941(昭和16)年に日本国籍を取得し、一柳米来留と改名しました。
 帰化をしても戦争中はスパイ容疑をかけられるなど、不自由な生活を強いられ、戦争が終わるまで、軽井沢で夫人とともにひっそりとくらしていました。
 終戦後、近江八幡に戻りその人脈と人柄に白羽の矢が立ち、マッカーサー元帥と近衛文麿元首相の会談の仲介を依頼されました。
 しかし、ヴォーリズ自身が公の場でそのことを語ることはありませんでした。
 マッカーサー元帥と近衛文麿元帥が会談をしたことは事実ですが、その背景にヴォーリズの影響があったのかどうかは定かではありません。

 1961(昭和36)年に活齬ア社ヴォーリズ建築事務所が設立されます。
 活齬ア社ヴォーリズ建築事務所はヴォーリズから直接指導を受けた若い技師達によって設立されました。
 21世紀を迎えた現在でも、ヴォーリズ建築の魅力と伝統を受け継いでいます。

 近江八幡が「世界の中心」だと言い、こよなく愛したヴォーリズは自宅で7年間の闘病生活の後1964(昭和39)年5月7日に他界しました。
 享年83歳でした。
 闘病生活の間に、近江八幡市名誉市第1号になるなどヴォーリズが近江八幡を愛したのと同じように周囲の人々から愛されたヴォーリズ。
 ヴォーリズの葬儀は近江八幡市民葬と近江兄弟社葬との合同で行われたそうです。
 その遺骨は、ヴォーリズが愛した両親や近江兄弟社の亡くなった社員たちと同じ「恒春園」に納められています。


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