James McDonald Gardiner ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857〜1925)


※略歴及びガーディナーの紹介については、参考書籍や新聞記事などを元に管理人の独学で私見を交えて掲載しています。
  間違いや新しい資料・情報などございましたらぜひメールでお知らせください。


  J.M.ガーディナー

 
++ 略 歴 ++

1857(安政 4年) 5.22アメリカ・セントルイスで生まれる
1875(明治 8年)ハーバード大学入学
1877(明治10年)ハーバード大学中退
1879(明治12年)フレーザー・エドワーズ商会(N.Y)に勤務
1880(明治13年)10.14 立教学校の教師(Missionary Teacher)として来日
立教学校第3代校長就任
1881(明治14年)立教大学校校舎着工(築地居留地34番)
1882(明治15年)フロレンス ・ピットマンと結婚
1883(明治16年)立教大学校校舎竣工・立教大学校初代校長に就任
1884(明治17年)立教女学校校舎竣工
1889(明治22年)東京聖三一大聖堂竣工(築地居留地39番)
1890(明治23年) 三一神学校寄宿舎・三一会館竣工
聖変容貌教会(日光)
1891(明治24年)立教大学校の校長退任し、建築家として本格的に活動
1894(明治27年)6.20 東京地震によって立教大学校の校舎焼失
(同年ハーバード大学学部学位取得)
1896(明治29年)立教尋常中学校校舎竣工
1897(明治30年) 日本聖公会 小浜聖路加教会(現・小浜聖ルカ教会)
【増築部分は昭和5年にJ・バーガミニーによる】
1898(明治31年) 横浜公園クリケットパビリオン
聖三一大聖堂(現・日本聖公会 聖アグネス教会)
1904(明治37年)東京市麹町区に建築事務所を開設
1907(明治40年) 日本聖公会 京都五条教会(京都聖約翰教会)
【現在明治村に保存】
1908(明治41年) 遺愛女学校本館(現・遺愛学院本館)
【渡り廊下及び講堂はヴォーリズによる増築】
1909(明治42年)村井吉兵衛京都別邸(長楽館)
1910(明治43年) 吉川重吉男爵邸
内田定槌邸(現・外交官の家)
ガーディナー自邸(麹町区土手三番)竣工
ガーディナー日光下赤門別荘(昭和50年代解体)
1911(明治44年)頃村井邸
1913(大正2年)小田良治邸(札幌)竣工
1914(大正3年)日本聖公会 日光真光教会
1918(大正7年) 立教大学本館(モリス館)・2号館・3号館・図書館旧館
第1食堂・礼拝堂【いずれも基本設計のみ】
1921(大正10年)日本聖公会 弘前昇天教会
1924(大正13年)小田良治邸(東京都)竣工
1925(大正14年)11.25 東京聖路加病院にて永眠
遺骨は日光真光教会祭壇の下に納められたと言われている

※オランダ大使館・スペイン大使館の設計はガーディナーだが、竣工はいずれも昭和2年。
  ガーディナー設計事務所所員だった上林敬吉がガーディナーの死後、引継いで完成させた。
  
 ++ 作品紹介 ++

聖三一大聖堂(日本聖公会聖アグネス教会) ※京都市指定有形文化財

京都聖約翰【ヨハネ】教会(聖ヨハネ教会堂) ※国指定重要文化財

旧遺愛女学校本館(遺愛学院本館 ※国指定重要文化財

旧村井吉兵衛京都別邸(長楽館) ※京都市指定有形文化財

旧内田定槌邸(外交官の家) ※国指定重要文化財

聖変容貌教会(日本聖公会 日光真光教会) ※栃木県指定有形文化財  

日本聖公会 弘前昇天教会 ※青森県指定有形文化財

日本聖公会 小浜聖路加教会 ※登録文化財

オランダ大使館

スペイン大使館

旧小田良治邸 ※現在失

立教大学(基本設計を行った校舎等)



++ ガーディナーの可能性が高い作品 ++

遺愛女学校宣教師館(遺愛学院旧宣教師館※国指定重要文化財
遺愛幼稚園 ※市指定伝統的建造物
遺愛女学校寄宿舎 ※現在失





++ J.M.ガーディナーについて++

 ガーディナーの作品で残っているものはとても少数です。何故なら、明治27年の東京地震と大正12年の関東大震災という2度の大きな地震に見舞われているからです。
 その際、建物だけでなく多くの資料も焼失したようで、もしかするとガーディナーの作品だと知られていないだけで、今でも大切に使われている建造物が存在するかも知れません。
 実際、北海道函館市の遺愛学院本館は2001年10月になって昔の資料が出てきてJ.M.ガーディナーの設計だと判りました。
 ガーディナーは、多くの作品を日本に残しているだろうと推測されながらも、現在ガーディナーの作品だと判明しているのは40棟ほどで、写真や図面が残っているのはそのうちの30棟ほどです。
 その中で、更に現存している建物はというとこのサイトに掲載している僅か10棟程度です。
 幸いなことに、現存の建物の多くが文化財などに指定されています。

 ガーディナーは敬虔なキリスト教信者でした。米国聖公会によって日本に派遣されたとき23歳という若さでした。
 明治の日本はアメリカ人の若者の目にはどのように映ったのでしょう。
 当時、「居留地」として外国人に開かれていた地区が神戸や横浜などにありました。神戸や横浜は今でも異国情緒溢れる街として、居留地の面影を残していますが、ガーディナーが赴任した先は東京・築地の居留地にある立教学校でした。
 立教学校は現在の立教大学の元になる私塾ですが、当時は聖書と英学を学ぶ場所でした。
 23歳のガーディナーはここで、教師になりましたが着任した明治13年には立教学校の第3代目校長に就任します。
立教学校を開設したウィリアムズ主教もガーディナーも校舎に隣接した宿舎で生活したようです。
 ガーディナーがハーバード大学に在学していた当時、同大学にはまだ建築学部はありませんでした。建築家を目指す場合、3年次からの専門課程はローレンス科学学部へ進学するのが一般的でしたが、ガーディナーは専門課程に進む前に大学を辞めています。
 しかし、建築に興味を持ち美術史を学んでいたガーディナーは立教学校へ着任してすぐ、あまりに不十分な立教学校の施設に困惑し、立教学校関係の校舎や教会などの諸施設の建設と改善に尽くすことになります。
 立教学校は明治16年に立教大学校(St.Paul's College)という、アメリカのカレッジスタイルの組織をもった学校を設立します。
これが、立教大学の前身です。当時、授業は全て原書で行われていたようです。
 ガーディナーは初代校長に就任します。
 
 ガーディナーは立教関係以外でもミッション・アーキテクチャーとしての力量を発揮し、次々に作品を作りました。
 明治24年には、建築家として本格的に活動するため立教の校長を退任します。
 その3年後に東京地震がおこり、築地にあった立教大学校の校舎のほとんどが壊滅してしまいました。

 ガーディナーが設計した教会は全て、日本聖公会の教会です。信仰に忠実だった様子がうかがえます。
 また、教会以外には学校の校舎や学内施設(礼拝堂含む)にも関わっています。
 個人住宅は、日本人の為にも多く作ったようです。
 ガーディナーはとても社交的だったようで、自ら「ハーバードクラブ」を設立し、ハーバード大学出身の在日外国人が集える場を提供していました。
 他にも、築地テニスクラブや東京文芸協会などにも参加し、日本にいる外国人や日本の著名人や有力者との繋がりがあったようです。
 それが、村井吉兵衛京都別邸等日本人有力者の自宅や別邸の設計につながったのではないでしょうか。

 ガーディナーには、フロレンスという妻がいました。
 フロレンスは立教女学校二代校長でした。2人は明治15年に東京芝にある聖アンレデ教会で結婚しました。
 ガーディナーは明治37年に、自宅兼設計事務所を東京市麹町区土手三番町34番地に構えました。
 調べてみると現在のJR市ヶ谷駅の近く、千代田区五番町付近でした。
 ガーディナー設計事務所には、日本人も多く働いていました。荒木賢治、辰野勇記、小野武雄、上林敬吉、鈴木初太郎という名前を在籍者に確認することができます。
 上林敬吉は最後までガーディナー設計事務所にいたと言われています。宇都宮に上林の設計した教会が残っていますがガーディナーの影響を受けた作風が印象的です。
ガーディナーの死後、上林が引き継いでスペイン大使館・オランダ大使館を完成させますが、結局ガーディナー設計事務所は誰にも引き継がれず、上林も独立してしまい、そのまま閉鎖してしまいます。
 ヴォーリス設計事務所やレーモンド設計事務所のように残っていたら、作品の資料ももっと残ったのに・・・と思います。

 ガーディナーは、日本がとても気に入っていたようです。
 ガーディナーには3人の娘がいましたが、名前をアーネスティン、ハスノハナ、リリアンと言いました。ハスノハナ・・・そう!「蓮の花」です。
 家族そろった写真は横浜の「外交官の家」に展示されています。
 自宅は東京市内にありましたが、来日した翌年の夏にはじめて行った日光がとても気に入っていたようで、明治43年頃には輪王寺構内の下赤門に和風の別称まで建てています。
 後に妻となったフロレンスと出逢ったのも日光だったようです。
 明治20年頃から毎年、日光を訪問したと言います。

 ガーディナーは、最初に赴任した築地にある東京聖路加病院で大正14年に亡くなりました。享年68歳でした。
 そして、大好きだった日光に自ら設計した真光教会の聖書台の足下の床下に妻のフロレンスまもちろん、娘・孫・愛犬と共に遺骨が埋められているそうです。


++ 立教大学タイムカプセル ++

 1999年8月5日に東京都豊島区池袋にある立教大学では、旧中学校校舎だった12号館の解体作業が行われていました。
 その際、礎石部分から2つのタイムカプセルが発見されました。ひとつは明治27年、もうひとつは大正14年のものでした。
 どうして、震災や世界大戦をかいくぐって池袋の校舎から出てきたのでしょう。

 明治27年、東京大地震で立教学校の校舎は倒壊・焼失しました。
 そのため、新しい校舎の建設準備がガーディナーによって進められました。
 その定礎式の際、礎石部分に当時の新聞(11月22日付け讀賣新聞)や、当時の貨幣、学生作品、聖公会関係の資料などを「タイムカプセル」としてセメントで封じたようです。
 その後大正12年には関東大震災があり、築地校舎は焼失したのですが礎石は残っていたので池袋へ移転する事になった立教中学校の新しい校舎の礎石と合わせて、築地校舎の礎石も校舎に添えられたようです。
 その際、新しい校舎の礎石の中にも新聞(11月18日付け東京日日新聞)や当時の教職員名簿などが収められていました。

 そして、1999年の取り壊しの際にその2つのタイムカプセルが発見されました。
 このことは、1999年9月2日付けの読売新聞に興味深い記事が掲載されました。
 また、立教大学で同年9月29日から10月8日に『立教大学125周年記念「タイムカプセル」収蔵品展』として一般公開しました。

 大正14年はガーディナーが他界した年なので、こちらのタイムカプセルにはガーディナーに関する品は無かったようです。
 明治27年に定礎式を行った、立教尋常中学校の設計者はガーディナーですが、その校舎は六角塔を配した、築地でもとても目立った建物だったようです。
 そちらの礎石から出てきた硬貨が入っていた封筒は、東京のガーディナー宛の封筒で差出人は「Robert Mitchell Furniture Co.」となっていたそうです。
 100年以上も前に。「タイムカプセル」があったこともスゴイことですが、2度の震災や世界大戦にも焼失せずしっかりと後世の人間が読める状態で保存されてきたことにも驚きます。
 明治・大正時代とタイムカプセルを埋めた人達はどんな想いでいたのでしょう。
 また、校舎の設計を行ったガーディナーはどんな想いをタイムカプセルに込めたのでしょう。




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